戦艦の論 THE SEVEN XVI「こうして飛雄少年は生まれかわった。その名を、鉄腕アトム!」







 トビオ=アトム神話
 〜 A Cruel Angel's Thesis 〜



アニメの祖である『鉄腕アトム』は、子供向けの設定でありながら、最初と最後に主人公が死ぬという、極めて衝撃的で珍しい展開を見せる。第一話でハヤタ隊員が死ぬウルトラマンは少し似ているが、最終話で命を授かるので大きく異なる。


アトムは一般に、誰からも愛される無敵のヒーロー像を持たれている。だが陰には、頼るべき父親に追い出される、実に悲しいストーリーを秘めていた。




 永遠にアトム



その、星になった少年にあやかったと考えると、
非常に辻褄が合う世紀のヒーローたち



1.「星 飛雄馬」(「巨人の星」)

 飛雄馬は天馬飛雄、または飛雄少年と天馬博士の合成より
 大リーグ養成ギブスは機械化への試練



2.「星野鉄郎」(「銀河鉄道999」)

 機械の体と永遠の命を手に入れるため旅立つ
 トビオ(人間) → アトム(機械)



3.「アムロ・レイ」(「機動戦士ガンダム」)

 アムロはアトムより
 ティム・レイは手塚治虫より
 ペガサス級戦艦(ホワイト・ベース)は天馬博士より
 ガンダムはダムダム(首を失っても戦う最強ロボ)より
 


  永遠にアムロ
 

何で永遠なのか、まったく分からない意味不明な歌詞である
しかし、アムロを、太陽に特攻するアトムに置き換えるとめちゃくちゃはまる



  アトム ふりむかないで


  宇宙のかなたに 輝く星は

  アトム お前の生まれた 故郷だ


  おぼえているかい 少年の日のことを

  あたたかい ぬくもりの中で めざめた朝を

  アトム ふりむくな アトム




4.「碇 シンジ」(「新世紀エヴァンゲリオン」)

 時代設定がアトムと同じ2015年
 人造人間とのシンクロは機械を超えた命の復元


 
  この宇宙を抱いて輝く、少年よ神話になれ 



 少年を、シンジに当てはめてみるも、
 初放映から21年経った現在でもしっくりこない

 ところが、残酷な事故で世を去った飛雄少年が、
 宇宙に旅立って神話化した、その後、地上で蘇った
 と考えると、完璧に筋が通る



  運命さえまだ知らない いたいけな瞳

  悲しみがそしてはじまる

  抱きしめた命のかたち

  その夢に目覚めたとき 誰よりも光を放つ




 死んでいないはずのガンダム
 「よみがえる」なぞも、これで解ける

  燃え上がれ(跳べ!)ガンダムの歌詞は、
 トビオ少年復活の呪文だったのだ

 


  まだ 絶望に沈む 悲しみあるなら

  恐怖をはらって 行けよ 行けよ 行けよ

  よみがえる よみがえる よみがえる アトム


  まだ 心があるなら

  銀河に向って トビオ アトム






星 一徹、黒騎士ファウスト、ティム・レイ、碇ゲンドウの、
息子に対するやや異常な仕打ちは、いずれも天馬博士に同じ

これを乗り越え、肉体と精神を限界まで追い詰めて闘うことができたのは、
再生のための神話であったから



 トビオ → 死・転生 →  アトム → 死・転生

  → 飛雄馬、鉄郎、アムロ、シンジ












鉄腕アトム 最終回

ゴジラ』、『さらば宇宙戦艦ヤマト』、『ターミネーター2』、『ディープ・インパクト』と、そっくりなラストシーンが見れるよ。




















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戦艦の論 THE SEVEN XV「お前を捕らえるつもりはない、子供がひもじかろうと思うてな。」











【考察】『シン・ゴジラ』への影響作品 9





真・ゴジラ 
ガメラAKIRAターミネータータイタニックジョーズ宇宙戦争




構図の同調で分かる。
タイタニック』は、紛れもない怪獣映画。








【新】「君の見たい(ゴジラ)が見れるよ」0




太陽を盗んだ男エヴァンゲリオン 』 



「権利関係」という最もタンニンなシステム支配下に関わらず、ゴジラの出てこない(ゴジラ)のような作品を果敢に製作してきた先達が、広島と山口にいた。



一作目ゴジラに続く、歴代シリーズにタンニンしていた熱心な初ゴジ信望者は、そんなクリエーターを多いに支持した。そして、そぞろ神が乗り移ったように、「ディレカン」や「Daicon」達が目覚めると、古代の怪獣を一時忘れ、これに心狂わせた。神まねきにあった彼らが尊崇したのは、東京で原爆を炸裂させた『太陽を盗んだ男』と、東京を海中に沈めた『エヴァンゲリオン』である。



さる関係者には誠に遺憾ながら、両者こそ豊葦原千五百秋瑞穂国の頂点に君臨する、真の呉爾羅であった。結果的に、ファン希求のゴジラ待望熱は、それら「ゴジラの出てこない(ゴジラ)」によっても解消された。



かつて、70年代末に製作された『 菅原ヴンダー 対 ジュリー 』は、見てくれこそメインキャラクターが、広島任侠界と東京歌謡界の人気を正式契約に基づいて宣伝しているが、その実態はあろうことか「人間ドラマ」ではなく、『ゴ ジ ラ』がまさにそうであったように、たったひとつの生命が巻き起こしたディザスター、突如日本の行政機構が陥るクライシス、そして首都東京がパニックに襲われる「怪獣映画」であった。



ゆえに、宣伝の対象と好むであろうファンが一致しないだけでなく、地方興行主の理解を超えていたため、古い観念の論者が評価に戸惑ったため、支持者が声援を送るというインフラが整っていなかったため、ロードショーが早晩リジェクトされる現象が起こってしまった。そうした意味で、改めて権利元からではなく、残念な成績を見た上でタイトルを付けるならば、この作品名は『大金を盗まれた男』がふさわしい。



 カタストロフの効用



公開当時、動員的には評価されなかったモンスター級アイドル映画の重要な弱点は、皇居で敢行された「ゲリラロケ」に完全凝縮されている。出世作青春の殺人者』では、芸術性についての主張が伝わり過ぎたためか、監督長谷川は次に製作する作品で、思い切り分かりやすく舵を切り直した。その結果、一部から日本のスピルバーグとも評されたが、全役人の敵となるつもりの破壊的ディレクターが、国家に叩きつけた挑戦状をして、「左折禁止違反」程度に扱われた「人質バスの突入シーン」は、期待した意味での理解に届かなかった。



アイロニカルなメッセージとして、十分痛烈だったにも関わらず、ラストにいたるまでがあまりに面白く、その過剰な興奮のせいで、ほとんどの観客は導入部の政治主張を忘れていた。命を投げ捨てることで、出兵子息への愛を成就させたバスジャック犯とて同じことだ、なんともったいないメッセージであることか。



初代ゴジラは国会議事堂までは壊したが、皇居には一歩も立ち入っていない。ゴジラ第四形態は、皇居の玄関口東京駅まではたどり着いたが、そこで身動きできなくなっている。一方、太陽を盗んだジュリーは、国会議事堂も皇居も攻め込んだ上で、丸ごと消滅させている。こんな不敬な作品は後の世にしか作られていない、クールなカルチャーと呼ばれたAKIRAevangelionだ。今から思えば、ヒロイン「ゼロ」をオリンピック建設予定地(台場/爆心)に誘い出したり、14歳の教え子たちを箱根(第3新東京市)に連れてったりしてるのは、恐ろしいほどに予言的だった。



「アキラ」も「エヴァンゲリオン」も、なぜ東京が消滅したのか多くは語らない。だが、世界的にも稀な、バブルに熱狂した異常な精神状態のスーパーシティーは、一度ご破算にすべき空気に支配された。そして土地神話と共に都市経済は崩壊し、名も知れぬ多くの当事者とその家族を苦しめた。このような背景の中で、アキラとエヴァは、漫画とアニメに舞台を変えて、叶わなかった『太陽』の続編作りを、もうひとつのニッポンの姿として見せてくれた。不完全燃焼した太陽の廃棄物を再処理し、発散すべき負のエネルギーを、ゴジラの熱線のように大放出してくれたのだった。



太陽にほえろ! 対 タクシードライバー



ところで、『太陽を盗んだ男』の中核をなしている、プルトニウムを盗んで政府を恐喝するというプロットは、先に東宝テレビ部製作の「太陽にほえろ!」で使用済みである(第77話「五十億円のゲーム」)。屋上から身代金をバラ撒かせるというアイディアも既出(第197話)で、ジュリーがこの刑事ドラマにゲスト出演した回(第20話)は、逃亡に協力する女性が現れるという点で『女心を盗んだ男』と一致する。太陽とともにタイトルバックが登場するオープニング、新宿の高層ビルを背景にポーズを決めるシーン、あの、誰もが知っているトランペットのテーマを演奏する井上堯之バンドの起用、最初(第1話)の事件の当事者が水谷豊、おまけには「危険を盗んだ女」(第51話)という、どこにつっこめばいいのかという姉妹回すらある。



では、首都が攻撃目標とされた際の政府対応を、『シン・ゴジラ』より37年早く浮き彫りにしたゴジ監督の「怪獣映画」は、「太陽にほえろ!」のスピンオフムービーだったかと言えばそうではない。



それっぽいところもあるが、脚本を書いたのは東宝テレビ部ではない。『太陽を盗んだ男』のシナリオ作家は、ロバート・デ・ニーロを一躍有名にした『タクシードライバー』の血筋だ(レナード・シュレーダー。ポール・シュレーダー実弟)。お茶の間か駅前のラーメン屋か銭湯のテレビ受像機に馴染みやすい「太陽にほえろ!」と違って、どこか日本離れしたスタイリッシュなムードを漂わせているのはそのためだ。



 「どこにいても、淋しさがつきまとう」

 「バーや車、歩道やストアやどこでもだ」

 「逃げ道はない、たったひとりだ」



 「6月8日、俺の人生にふたたび転機が現れた」

 「長い鎖のように続く漠然とした日々」

 「それが突然変わった」



 「俺は太陽さ」

 「名前はヘンリー・クリンクル」

 「ホッパー通り 154番」



要人暗殺を目論む、謎めいた一人の『タクシードライバー』と、何が目的かはっきりしないが、とんでもないことをしでかす『太陽を盗んだ男』はよく似ている。都会のありふれた職につき、友達とわいわい騒ぐこともなく、孤独な妄想をめぐらす青年の前に、ある日突然、抜き差しならない暴力が立ちはだかる。



その日を境に、ストイックに体を鍛え、自室にこもって武器を製造する。ぶつぶつ独り言を言っているかと思うと、シークレットサービス(官憲)をおちょくり偽名を名乗る。繁華街のウィンドウ越しに笑顔を振りまくマドンナに、だいたんアプローチしカフェに誘い出す。街の夜闇、フロントガラスに映ったネオンが交錯し走り去る中、ひとり静かに獲物を求める。頭を狙ってエア自殺する。二丁拳銃で弾がなくなるまで撃ちまくる。




 「3年3組担任、城戸誠」

 「なになに、若葉町1の3の27、サトウシゲオさんね」

 「キド、いやキドコロマサオ、よろしく」



 「お礼に俺の名前を教えてあげるよ、俺は9番」

 「現在、核爆弾保有国は八つある、おれはその9番目だよ」



 「いいよ、教えてあげるよ」

 「俺は9番、9の次はゼロなんだ」




地球上のどこかの住所と、本名と肩書きに縛られていれば安心できる我々と、少し異なるアナーキーな生き方を選択した『タクシードライバー』。似ている邦画は『盗んだ男』だけではない。名誉除隊の退役軍人、帰還後の逸脱行動を綴ったこの映画には、『七人の侍』のエッセンスが含まれている。かの主人公たちも主君を失い傷を負い、無秩序な時代をさまよう退役サムライだった。唐突に頭にソリを入れて、か弱い少女を、売春宿のチンピラどもから助け出したデ・ニーロは、たくましい百姓と、勇気ある浪人の両方の血を受け継いでいた。モヒカンにしたのは、過去の自分との断絶を意味していたに違いない。



そもそも、有名な「なんじゃこりゃー」(第111話)を生んだ「七曲署」のメンバー設定からして、『七人の侍』のキャラクターをモチーフにしている(1ボス、2山さん、3ゴリ、4殿下、5長さん、6シンコ、7ジーパン)。赤子を人質にとった凶悪犯が立てこもる小屋の前、大勢が見守る中、武士の尊厳を意味する髷を剃って刀を外し、ひとり前に進み出る志村喬の名シーンは、「太陽にほえろ!」では長さん主役回(第81話)で再現している。刑事が拳銃を手放すことは、命を相手に委ねるに等しい。ジュリーが衝撃を受けた、立てこもり犯とヴンダーの素手での交渉シーンも、「太陽にほえろ!」ではなくレジェンド『七人の侍』をルーツにしているのかもしれない。














【再掲載】「君の見たい(ゴジラ)が見れるよ」1
http://d.hatena.ne.jp/BRIDGET/20141001



『 ゴ ジ ラ 対 ガ メ ラ 』



「権利関係」という最もタンニンなシステム支配下に関わらず、ゴジラの出てこない(ゴジラ)のような作品を果敢に製作してきた先達がいた。


一作目ゴジラに続く、歴代続編シリーズにタンニンしていた熱心な初ゴジ信望者は、そんなクリエーター達を多いに支持した。そして、そぞろ神が乗り移ったように、大覚様が目覚めると、古代の怪獣を一時忘れ、これに心狂わせた。神まねきにあった彼らが尊崇したのは、セントラルドグマより発現した大権現『 ア キ ラ 』と、十字架をタイトルロゴで現出した『 平成 ガ メ ラ 』である。さる関係者には誠に遺憾ながら、両者こそジャパニーズ・バラエティ生態系の頂点に君臨する、真の呉爾羅であった。結果的に、ファン希求のゴジラ待望熱は、それら「ゴジラの出てこない(ゴジラ)」によって解消された。





(おもしろかった頃のフジテレビは『ブジラ』を、auは『デジラ』を、ファイヤーフォックスは『モジラ』、パラマウントは『クローバーフィールド』、サンライズは『耐熱フィールド』、ガイナックスは『ATフィールド』、ガミラスは『ゲシュタムフィールド』、その他 ニャジラ、雀路羅、ゴモラ、ゴドラ、ゴラス、ジラース、ドジラ、松井、グズラ、ガジラ、バジラ、長谷川和彦)




この度、ハリウッドで製作された『 ゴジラ 対 無 糖 』(ワーナー映画)は、見てくれこそメインキャラクターが、怪獣王の形態と咆哮と著作権とを、正式契約に基づいて継承しているが、その実態はあろうことか、人気ファッションブランドの「東宝ゴジラ」ではなく、世間的には下等なレッテルを貼られた「大映ガメラ」であった。ゆえに、名称と中身が一致しないだけでなく、影響が上位に逆流(Strikes Back)し、シンクロがループする現象が起こってしまった。そうした意味で、改めて権利元からではなく、モンスターペアレント風に、大上段からキラキラネームを付けるならば、このタイトルには『牙米裸の逆襲』がふさわしい。


世界最高峰のモンスタームービー、『 ゴ ジ ラ 』(東宝映画)の重要なエッセンスは、一作目に完全凝縮されている。二作目以降、それが薄まることはあっても、別の視点で加味濃縮されて現れることは遂になかった。しかし、 “ファーストゴジラインパクト” の思想と科学と期待は、時と場所と表現分野を転移して還元する。ゴジラ宗家が庇護された環境の中で、リテラシーの低い客層をターゲットに、だらだらと加糖加水シリーズを産み落としている傍流で、世界も注目する大傑作『合帰邏の胎動』が始まる、 “セカンドアキラ・インパクト” だ。



ア・キ・ラ。アギラ、アンギラス、デスギドラ、メカゴジラ、モゲラ、モスラデスラー、マグラー、ベムラーゲスラガミラスガメラガボラ、ガンドロワ、ガルマ、ガル、ゲール、キール、キーラ、セイラ、ゼーレ、ゼットン、財前、ジオン、次元、ジグラ、グドン、ゲンドウ、ドレン、ドズル、ドメル、ドラコ、リトラ、トドラ、ドドンゴ、ドゴラ、ゴドラ、ラゴン、バラゴン、バルゴン、バラン、デギン、ギロン、ギレン、レギオン、ギララ、ギガラ、ぺギラ、ギドラ、城戸、吉良、キラ、不動明



伝承神話『呉爾羅』に、「尾ひれ」や「牙」や「角」や「翼」を付けることで、無限増殖した日本の「怪物の名前は、紛らわしく似ていてどれも同じだ」と思っている外国人が、「これこそ尾ひれを取ったゴジラの本意だ」と思って、感動と衝動と萌記憶に残るアンチヒーローの設定を、すべてぶち込んで脚本の中で爆縮してみたら、内容的には契約外作品の「尾ひればかりだった」というのが、この世界配給安定ヒット最新作品の、究極のツッコミどころだ。


されど、「無糖」と「ギャオス」に代表される、巷間をにぎわせている類似性に関する指摘が、全くの偶然とは思えない。ビジネス無知を装って権利侵害検証を怠り、怪獣無知なリスク管理担当者や経営トップを欺いていたとしたら、一周回ってこれは快挙である。経済大発展を遂げた資本主義体制に対し、これほど、緻密に計算された怪獣総進撃はない。国際連合安全保障理事会常任理事国より下等な日本は、大変よ戦争で、習合自由な合習国に二度も敗北を経験させられたことになる。、、いや、勝ったのはあの先達だ、米国ではない。



Q

初号機の覚醒とともに、要塞化した山間の都市が、強烈な光に飲み込まれ、NERVの陣形は跡形もなく崩壊し、 “エヴァを中心にサードインパクト” がはじまった。、、世界嵐がおさまり、突き抜ける陽光のもと、楽しそうにピアノを奏でて友情を確認し合う、シンジと言う名のトリガーと、「罪と希望」を預言する、十字架を背負ったゼーレの少年「渚カヲル」であった。



 「もうすぐ雲がきれる」


 「君の知りたい真実が見れるよ」






七人の侍 終局

野武士最後の襲撃とともに、要塞化した山間の村が、騎馬に踏み荒らされ、百姓の陣形は跡形もなく崩壊し、藁葺きの家には種子島を持った、敵の頭領が押し入った。、、嵐がおさまり、突き抜ける陽光のもと、嬉しそうに囃子を奏でて田植えに乗り出す、百姓衆と言う名の自治組織に対し、「侍」の敗北を宣言する、天才軍師「勘兵衛」(志村喬/シムラ タカシ)であった。



 「今度もまた、負け戦だったな」



  「、、?」



 「いや、勝ったのはあの百姓たちだ、」


 「ワシたちではない。」





AKIRA 終局

アキラの覚醒とともに、東京湾全域を埋め立てて建設したネオ東京が、強烈な光に飲み込まれ、高層ビル群は跡形もなく崩壊し、爆心のクレーターにはおびただしい海水が流れ込んだ。、、巨大嵐がおさまり、突き抜ける陽光のもと、難民を威圧するように、戦闘車両を連ねて人道支援に乗り出す、国連監視団と言う名の武装組織に対し、「大東京帝国AKIRA」の旗揚げを宣言する、健康優良不良少年「金田」であった。



 「責任者、出て来ーい!」


 「救援物資は有難く貰っておくぜ、だがそれ以上の行為は、」


 「我国に対する、内政干渉とみなす、いいな!」














【再掲載】「君の見たい(ゴジラ)が見れるよ」2
http://d.hatena.ne.jp/BRIDGET/20141110



『 ゴ ジ ラ 対 タイタニック
 


「権利関係」という最もタンニンなシステム支配下に関わらず、ゴジラの出てこない(ゴジラ)のような作品を果敢に製作してきた先達が、海外にもいた。


一作目ゴジラに続く、歴代シリーズにタンニンしていた熱心な初ゴジ信望者は、そんなクリエーターを多いに支持した。そして、そぞろ神が乗り移ったように、「時をかける兵士」達が目覚めると、古代の怪獣を一時忘れ、これに心狂わせた。神まねきにあった彼らが尊崇したのは、来世よりロサンゼルスに現出した、三宝荒神ターミネーター』と、賛美歌を奏でながら十字架と共に沈んだ『 タイタニック 』である。



さる関係者には誠に遺憾ながら、両者こそユニバーサル・バラエティ生態系の頂点に君臨する、真の呉爾羅であった。結果的に、ファン希求のゴジラ待望熱は、それら「ゴジラの出てこない、国外の(ゴジラ)」によっても解消された。



かつてハリウッドで製作された『 ターミネーター 対 サラ・コナー 』は、見てくれこそメインキャラクターが、機械人間の暴力と無慈悲と執念とを、正式契約に基づいて宣伝しているが、その実態はあろうことか「アクション・ホラー」ではなく、『ゴ ジ ラ』がまさにそうであったように、人類究極の選択に揺れ動く、若い男女の一途過ぎる「ラブ・ストーリー」であった。



また、一度は敵として倒したはずの大凶荒神が、忘れた頃に続編の中で甦ると、今度は心強い守護神になっているという、逆転設定まで同じだった。ゆえに、敵と味方が一致しないだけでなく、影響が子供(ジョン・コナー)に及び、シンクロが裏返しに双ループする現象が起こってしまった。



 悲劇の効用



公開当時、世界最高興行収入を上げた、モンスター級豪華客船の重要なエッセンスは、投げ捨てられる「碧洋のハート」に完全凝縮されている。出世作ターミネーター』では、愛についての主張が伝わらなかったためか、監督キャメロンは次に製作する作品から、思い切り分かりやすく舵を切り直した。そのため、これでもかというほど「愛」に比重を傾けられた『タイタニック』の、「巨大ダイヤ、ポイッとなシーン」は、期待した意味での理解に届かなかった。



アイロニカルなメッセージとして、十分痛烈だったにも関わらず、ラストにいたるまでがあまりに面白く、その過剰な感動のせいで、ほとんどの観客は、感極まり涙に咽び、論理的思考を止めていた。命を投げ捨てることで、至高の愛を成就させた『ゴ ジ ラ』の、芹沢博士とて同じことだ、なんともったいないメッセージであることか。



誰もが知っている「SOS」を、海難救助を求める信号として、歴史的初期段階に使ったのは現実世界のタイタニック号であった。しかし、沈没する貨物船に発信させ、世間に定着させたのは、実際のところ架空世界のゴジラである。後者には、戦後の復興途上にあった時代の、忘れるべからざる「戦災」や「大災害」や「政策ミス」に対する、「警鐘」や「教訓」や「戒め」が込められている。



今からちょうど60年前の、霜月11月。ゴジラは、「戦意発揚映画」でも「教育用ドキュメンタリー」でも「行政指導要綱」でもない、モノクロの「大衆娯楽作品」として公開された。それは庶民の目線で、奥(末端の意)の日本人に贈る、極めてわかりやすい「慢心」回避のための思想書でもあった。



敗戦からまだ10年経っておらず、水爆実験により日本の漁船多数が再び米軍の犠牲となったばかりで、660万人いた出兵兵士の「復員事業」は、この年まで続いていた。科学信仰が、疑いを持たれなかった1954年。過去の惨禍を忘れるように発展する「政治経済体制」に対し、置いてけぼりを食っている、貧しい労働者階級が、映画製作者の中にいたことも事実だ。



彼ら敗戦国の下層文民にとって、どんな文明利器も歯が立たない “怪 獣” は、単なる恐怖の的ではなかった。文壇の受けは良くなかったが、資本権力が横暴を働かせる中で、かのヒーローは、唯一奴らを懲らしめることができた。ターミネーターが、融通の利かない行政職員を薙ぎ払ってくれたように、ゴジラもまた、国会や警視庁や大新聞社を踏みつぶし、群がるうるさいレポーターを叩き落とし、うっぷんを溜め込んだ被抑圧者のカタルシスを、盛大に喚起してくれたのだった。



 アンダー・ザ・プレッシャー



上からの圧力にどこまで耐えられるかという、深海探索を生業とする、タイタニックゴジラ両作品の主人公達の視点は、映画の世界観に入り込んだ、平均的な観客(現代人)の立ち位置であった。『タイタニック』であれば最初に登場する、宝探しの「ビル・パクストン」であるし、『ゴジラ』であれば南海サルベージ社潜水員の「宝田 明」であろう。トレジャー・ハンターの妄執が過去に逆流し、隔てられた海の向こうで至宝の共振を生んだ。



さて、ゴジラと同じく「東宝」撮影所で撮影され、同じ1954年に公開された「国宝」級作品がある、、。その監督は、東京国際映画祭のポスターに起用されたことで、各方面で話題になっており、名前くらい知らないと、相当に恥ずかしいというレベルの、そういう大御所である。彼が、漫画「A K I R A」の由来ともなっていることは、「戦艦の論」的にも重要だ。直接この映画に関わっていないが、すでに作品評価の安定していた “黒 澤” 組は、隣のスタジオで制作する「G作品」チームを大いに刺激した。



一方、ならず者が集められた “本 多” 組には、「G作品」で主人公を演じた新人「宝田 明」の他に、かの有名な旋律を編み出した音楽の「伊福部 昭」、ゴジラのデザインをした美術の「渡辺 明」、宣伝を担当した「工藤 明」がいる。アキラで奇跡のフォーカードをツモったのは豪勢だが、「七人のアキラ」には三人も足りない。



やがて、ゴジラはシリーズを重ねるごとにマンネリ化していく。しかし、宇宙怪獣と戦わせるなど、荒唐無稽ながらも大胆なアイディアで、映画と娯楽の新境地を開拓していった。『 七 人 の 侍 』撮影中、ゴジラの撮影所へ遊びに行っていたらしい土屋 嘉男(好戦的な百姓役)は、後に「X星人」統制官役で、碇ゲンドウがつけていた不気味なゴーグルを着用し、宇宙なまりの日本語をしゃべって、純真な子供たちをビビらせた。
















 【再掲載】「君の見たい(ゴジラ)が見れるよ」3
http://d.hatena.ne.jp/BRIDGET/20150529



『 ゴ ジ ラ 対 宇宙戦争 』 



「権利関係」という最もタンニンなシステム支配下に関わらず、ゴジラの出てこない(ゴジラ)のような作品を果敢に製作してきた先達が、キャメロンのほかにもいた。


一作目ゴジラに続く、歴代シリーズにタンニンしていた熱心な初ゴジ信望者は、そんなクリエーターを多いに支持した。そして、そぞろ神が乗り移ったように、「突激トレーラー」達が目覚めると、古代の怪獣を一時忘れ、これに心狂わせた。神まねきにあった彼らが尊崇したのは、東海岸ビーチをパニックに陥れた、三報海神『 ジョーズ 』と、教会の十字架を土中に沈めた『三本足戦艦』である。



さる関係者には誠に遺憾ながら、両者こそユニバーサル・バラエティ生態系の頂点に君臨する、真の呉爾羅であった。結果的に、ファン希求のゴジラ待望熱は、それら「ゴジラの出てこない、国外の(ゴジラ)」によっても解消された。



かつてハリウッドで製作された『 三本足戦艦 対 トム・クルーズ 』は、見てくれこそメインキャラクターが、機械兵器の暴力と無慈悲と不気味さとを、正式契約に基づいて宣伝しているが、その実態はあろうことか「SF・戦争アクション」ではなく、『ゴ ジ ラ』がまさにそうであったように、命を賭して愛情表現する、不器用な男の一途過ぎる「ヒューマン・ドラマ」であった。



ゆえに、名称と中身が一致しないだけでなく、連想がスター・ウォーズに逆流(Strikes Back)し、シンクロがリジェクトされる現象が起こってしまった。そうした意味で、改めて権利元からではなく、ガテン風に、最下段から職種分類ネームを付けるならば、このタイトルには『クレーンオペレーターの逆襲』がふさわしい。




 バクテリアの効用



公開当時、世界最高興行収入を上げた、モンスター級侵略兵器の重要な弱点は、指に刺さった「トゲ」に完全凝縮されている。出世作E.T.』では、宇宙人愛についての主張が伝わり過ぎたためか、監督スピルバーグは次に製作する宇宙作品から、思い切り分かりやすく舵を切り直した。そのため、全生類の敵となった先進宇宙人とのワールドワイドな防衛戦を、「混入」程度に比重軽減された『宇宙戦争』の、「巨大メカ、ボテッとなシーン」は、期待した意味での理解に届かなかった。



アイロニカルな表現として、十分痛烈だったにも関わらず、ラストにいたるまでがあまりに残酷で、その過剰な描写のせいで、ほとんどの観客の期待は冷め、良心的思考を止めていた。異物を排除することで、グローバル生態系の調和をはかった『 地 球 』の真正細菌とて同じことだ、なんともったいないメッセージであることか。映画中盤、トム・クルーズの隠れ家へ遊びに行っていたらしい、純真な子供宇宙人たち(チブル星人 X グモンガ)は、母船の雄叫びにビビって退散した。その時、生水を飲んでいたため、食あたりをして後に全滅する。ゴジラの猛々しい咆哮に、その音階が似ている特殊効果音は、『未知との遭遇 』母船の警笛音をベースに奏でられていた。



上からの圧力よりも港湾労働組合を優先とする、トム・クルーズ演じる主人公の視点は、映画の世界観に入り込んだ、恒常的な観客(カメラ)の立ち位置であった。ほとんどの場合、地上からの目線で、巨大な三本足怪獣を見上げていたが、主人公に合わせて二度だけ空に浮いた。イントロダクションであれば最初に登場する、船舶積荷のクレーン『操縦席』の高さであるし、クライマックスであれば「たこメカ」の積荷として、釣り上げられ、押し込められた『獲物籠』の高さである。そして、人喰いハンターの触手がトムに巻きつき、あわや一巻の終わりと思われたその時、油断していた向こうの胃袋で、手榴弾からの内部誘爆を生んだ。



 Mars, the Bringer of War



さて、誰もが知っている「ジョーズのテーマ」(作曲 ジョン・ウィリアムズ)を、歴史的初期段階に使ったのはクラシック界のドヴォルザークであった(「新世界」第4楽章の出だし)。しかし、低音で始まるメロディーを繰り返し演奏することで、世間に恐怖を定着させたのは、実際のところゴジラ(作曲 伊福部昭)である。「ゴジラ」のテーマは、ホルストの「火星」がその代表であるように、戦争をイメージさせる曲として、宇宙戦争のみならず、セブン(「侵略者の魔手」)やジオン(「窮地に立つガンダム」)やエヴァ(「ANGEL ATTACK/The Beast」)にも応用されている。





ゴジラゴモラかガラモンを撮りたかったスピルバーグの「宇宙戦争」は、「火星人襲撃ラジオ番組」でも「アメリカン・ヒーロー・コミック」でも「星間戦争映画」でもない、「地上のみを舞台とした、家族密着ドキュメンタリー風ドラマ」として製作された。そのため、カメラは一時もトム・クルーズから離れない。まれに超人的な活躍をするものの、その内半分くらいは普通で、一割くらいは子供に呆れられている。それは、だらしない父親の目線で、カッコイイつもりの父親に贈る、極めてわかりやすい「虚栄」回避のための指南書でもあった。
























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戦艦の論 THE SEVEN XIV「オタク、モンダイ児、はなつまみ者、やっかい者、学会の異端児、そういったニンゲンの集まりだ。」









巨災対」(巨大不明生物特設災害対策本部)は、平時は休眠状態にあるNERVに似ている。だが、それ以上に、有事の寄せ集めキャラクター達の活躍という点で、ホワイトベース・クルーの方が圧倒的に似ている。


ホワイトな巨塔と怪物の棲む塔


SFアニメ風シンクロ要素を引き算しても、ゴジラシリーズとして成り立つかもしれない。しかし、庵野趣味を取り除いたら、ここまでファンたちの間で話題になっていない。よく引き合いに出される「イデオン」は、少し似ている程度に過ぎない。






【考察】『シン・ゴジラ』への影響作品 7


巨災対かぶるキャラクターまとめ(『ガンダム』など)



0.
矢口蘭堂(巨災対事務局長→巨大不明生物統合対策本部副本部長)
ブライト・ノア(地球連邦軍士官候補→ホワイトベース二代目艦長)

 「着替えないと、いい加減、臭いわよ」と叱られる 矢口蘭堂アムロ
 「ちゃんと朝食を取らないと、体のために良くないのよ」とも言われる

巨大な一つ目の怪物「ザク」の襲撃で、戦闘員の大半と艦長を失う
→ ソーラ・レイの放射で総司令官を失う
→ WBクルー、ホワイトベースと共に、「ア・バオア・クー」(「勝利の塔」の怪物)に突っ込む


1.
ゴジラ(の熱戦放射)
ワッケイン司令(の全ミサイル発射)
イデオン(の全方位ミサイル)

ゴジラ(の凍結)
ウルトラ兄弟(の凍結)
ターミネーター(T-1000の凍結)


2.
尾頭ヒロミ(環境省自然環境局野生生物課長補佐)
フラウ・ボゥ(鋭い観察眼を持つ美形ヒロインの引き立て役)
クロエ・オブライエン(CTUニューヨーク支局上級分析官)

3.
カヨコ・アン・パタースン(米国よりの美人特使、巨災対に兵器提供)
と ドロシー・アンダーソン(TDFワシントン基地よりの美人特使、ウルトラ警備隊に兵器提供)
マチルダ・アジャン(ジャブロー基地よりの美人特使、WBに兵器提供)

巨災対」は、スーパーエリートを集めたウルトラ警備隊やCTUとは優秀さの種類が違う。
どちらがいいかは、求めるおもしろさで決まる。

4.
無人在来線爆弾
と 爆載マグマライザー(のラストアタック)
無人ガンダム(のラストシューティング)

5.
赤坂秀樹(内閣総理大臣補佐官)
ワッケイン司令(優秀すぎる官僚)

6.
泉 修一(保守第一党政調副会長)
リュウ・ホセイ(ブライトと同じ元士官候補生で唯一の相談相手)

7.
安田龍彦(「有り得ませんよ」「あーッ! あーッ! 」の人)
カイ・シデン(うるさいが意外に活躍)


おまけ

財前正夫(統合幕僚長)
財前五郎(浪速大学病院第一外科助教授)

里見祐介(農林水産大臣)
里見脩二(浪速大学病院第一内科助教授) 

花森麗子(防衛大臣)
と 花森ケイ子(財前五郎の愛人)

大河内清次(内閣総理大臣)
と 大河内教授(浪速大学医学部病理学教授)

東竜太(内閣官房長官)
と 東貞蔵(浪速大学医学部第一外科教授)









ゴジラに等しい最悪の敵が出現したとき、責任を負った国家や組織のリーダーは、これを撃退するため特別チームを組む。ドラマはそこから始まる。


ウルトラなセブン


チーム力で危機に打ち勝つストーリーが絶大な支持を集めた『七人の侍』は、初代ゴジラが大暴れした1954年以降世界中で公開され、ゴジラと同様に、偉大な監督達に影響を与えている。いつもは頼りなくてもイザってときに大活躍する「巨災対」は、平常時は浪人状態にあるが、頼られると力を発揮する『七人の侍』に似ている。『シン・ゴジラ』は、いわば両横綱のいいとこ取りをしたような作品だ。


一匹狼(1)、変わり者(2)、オタク(3)、モンダイ児(4)、はなつまみ者(5)、やっかい者(6)、学会の異端児(7)、そういったニンゲン(七人)の集まりだ。






【考察】『シン・ゴジラ』への影響作品 8



0.
七人の侍
百姓(国民)に雇われた侍(役人) vs 野武士集団(国家統制の及ばない暴力的勢力)

(類似作→マグニフィセント・セブン龍三と七人の子分たち、七人のオタク、荒野の七人、宇宙の七人、七人の刑事、ワイルド7、、ほか多数)

1.
サマーウォーズ
理系高校生を主戦力とした陣内家 vs 人工知能

2.
機動戦士ガンダム
コンピューターオタクを主戦力とした避難民 vs ジオン軍

3.
太陽を盗んだ男
山下警部を中心とした特命対策本部 vs 化学オタクの高校教師

4.
プライベート・ライアン
元高校教師を中心とした特命救出部隊 vs ドイツ軍

5.
ミュンヘン
首相警備兵(二世)を中心とした特命暗殺部隊 vs パレスチナ過激派

6.
エイリアン2
元船員と宇宙海兵隊からなる特命救出部隊 vs エイリアンズ

7.
プレデター
エリート救出部隊(特命はチームに共有されていない) vs プレデター

8.
地獄の黙示録
暗殺部隊(特命はチームに共有されていない) vs 密林の王(元グリーンベレー隊長)

9.
『ザ・ミッション 非情の掟』
元ヤクザの特命チーム vs 香港マフィア

10.
M:i:III
スパイ組織IMFの現場チーム vs 国際犯罪組織

11.
『RONIN』
冷戦終結により解雇された特殊工作員たち vs 黒幕

12.
ディープ・インパクト
エリート地球人 vs 隕石

13.
アルマゲドン
ならずもの地球人 vs 隕石

14.
シン・ゴジラ
二世議員を中心としたはみだしもの日本人(現実) vs ゴジラ(虚構)

























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戦艦の論 THE SEVEN XIII「作ってる本人が、放射能を浴びて死んでしまいますがね。」






シン・ゴジラ』は、初代『ゴジラ』に似ている。それ以上に、今に通じるおもしろさでは、『太陽を盗んだ男』の方が圧倒的に似ている。下述のシンクロ要素を引き算しても、ゴジラシリーズとして成り立つかもしれない。しかし、ミリタリーシーンを除いたら、基本場面については、絶対に面白くはなっていない。よく引き合いに出される『エヴァ』は、少し似ている程度に過ぎない。






【考察】『シン・ゴジラ』への影響作品 5


太陽を盗んだ男似ているところまとめ(感想も混じる)


0.
『日本 対 俺』(原題) と「ニッポン対ゴジラ」のキャッチコピー

1.
山崎留吉と「ゴジラ第二形態」の焦点の定まらない目(キモ怖さ)


画像はイメージ(「せきかわ大したもん蛇まつり」より)
http://www.niigata-kankou.or.jp/sys/data?page-id=2222

2.
ジュリー と「ゴジラ第四形態」海より上陸 & 火炎放射

3.
化学プラントの描写と核物質の紫発光

4.
問題を軽視する政府と初動の混乱

5.
ラジオ聴取者の声とネットの声(動画) & デモ隊のシュプレヒコール(代々木のメーデー霞ヶ関の国会前)、標的を確保するが取り逃がす、再度狙われる東京

6.
民間(半官)各社の一斉協力(戦後政府初の強権発動)、京王線京急線のやられっぷり&国電中央総武線JR中央線山の手線京浜東北線のダイナミズム!!

7.
放射性物質露出・化学防護服着用、簡易な食事・着替え風景、電車&バスで監督カメオ出演、手配者の写真が黒沢清監督&岡本喜八監督、都心のモブ、ジュリーとゴジラが路上の車を蹴散らす・警察隊&自衛隊の包囲網を突破する・喉元に筒状の物体(ニューナンブ&プレーシングブーム)を突っ込む

8.
警視庁 & 警察庁長官へのダイレクトコール & ネゴ、ジュリーとゴジラに唯一の弱点が見つかる、反撃計画、陽動作戦、そして科学技術館屋上で最終決戦、ヴンダーとゴジラが何発撃たれても死なない、かつ、ぶっ倒れた後に極大反抗する

9.
沢井零子とカヨコ・アン・パタースンの、ほそいあごにぷっくり唇、たれ目がちでキュートな顔立ち、男社会と対等以上に渡り合える弁舌と、職場環境にそぐわない色っぽさ(ウェービーロングと胸開きドレス)

10.
要人避難計画 & ヘリに飛び乗るが被災、ジュリーとゴジラの声が段階的に変わる、熱核兵器爆発までのカウントダウン進む、万全対策とれず最後は賭け

11.
たった一人で引き起こした無差別大規模テロ(国家軍事力無効化を証明)

12.
上記人物(理系教員と科学者)の残した膨大な計算式とメッセージ、主人公が皇居を見下ろすビル屋上で本音吐露

13.
社会世相(過激化する反体制勢力・加速化を始めた消費経済・舞台型犯罪)の先取りと大災害(震災・原発災害)の反映(落とし前)

14.
東宝株式会社 製作・配給 & 劇中音楽の選曲が一分の隙もなく完璧 & 監督とメインキャラクターがゴジとゴジラ(キネマ旬報 2016年9月下旬号 特別企画が「シン・ゴジラ」と「長谷川和彦」)








【考察】『シン・ゴジラ』への影響作品 6





以下は過去ログよりの転載




第2部『サムライ交響曲






第10番第1楽章「撃て、撃ち殺せ、かまわん!」


『戦争の記憶』前編
http://www.variety.jp/eiganoron/samurai10-1.html


「ハグレニンゲン 対 最強アニマル軍団」の『猿の惑星』(1968)、
「先進民主国家 対 最強帝国海軍」の『トラトラトラ!』(1970)、
「開かれた国民的英雄 対 閉ざされた最強政府機関」の『カプリコン・1』(1977)。

作曲家「ジェリー・ゴールドスミス」は、存亡をめぐる闘いをテーマにした映画と所縁が深い。例えば、アクション映画の代表格とも言える『ランボー』(1982〜)シリーズ。ここでは、「国家システム 対 最強帰国兵士」の無茶苦茶な死闘を猛々しい楽曲を用いて表現して見せている。

キル アニマル

シリーズ3作目以降急速に人気を失う『ドリヴン』のシルベスタ・スタローンは、『ランボー 怒りの脱出』(1885/米公開)が日本で公開された約15年前の夏当時、若い男達の絶大なる憧れの的だった。ゴールドスミス節の良く似合う全身マッスルなその男が、ゴジラのような刃を持つ大型ナイフ(俗称「ランボーナイフ」)を研ぎ、高性能爆薬を矢じりに装着した「コンパウンド・ボウ」(弓)を放ち、「M60アサルト機関銃」を乱射する。無尽蔵な弾丸はすべて敵めがけて命中するが、高圧電流も機銃掃射も迫撃砲の乱打も、ナパーム弾の火炎も正確な空対地ミサイルも、「大怪獣ランボー」には通用しない。

傑作コメディー『ホット・ショット2』(「チャーリー・“プラトーン”・シーン」主演。その実父「マーティン・“地獄の黙示録”・シーン」もパロディーに協力している)の元ネタとなったこの映画を今さら誉めると知能程度を疑われそうだが、共産国兵士を虫けらのように殺しまくる派手なガンファイトの一方で、2作目までは割とヘヴィーなテーマと、質の良いシナリオを持っていた。

大国の都合で永い眠りの床から連れ出された「ゴジラ」に悪意がなかったように、あり余る力が便利すぎる都会の調和を乱そうとも、拘留されるランボー自身に原罪はない。「むしろ純粋に磨き上げられた彼が、鏡のように映し出した世俗世界の方がどこかゆがんでいた。」そして、祖国を愛しながら「時代システム」の変化にキャッチアップできず、はみ出し者にされるその孤独なベトナム帰還兵をスタローンは好演し、映画と無敵のヒーローの人気は絶頂を極め、多くの亜流ムービーを世に送りだすことになった。

坂下門外の変

武者宇宙服と忠君アンドロイドを登場させて、スペースホラーというB級ジャンルを芸術域に高めた「日系宇宙企業人 対 最強宇宙生物」の『エイリアン』(これまた音楽はゴールドスミス)が公開された20年以上前の日本映画には、すでに和製ランボーが登場していた。精神異常の旧帝国軍人を上洛させて、「ゴジラ」も避けて通った宮城への門を無理矢理こじ開けたのは、恐れを知らぬ「最強日本映画『太陽を盗んだ男』」。最下層の“若い御家人”がたまたま遭遇したバスジャック事件の犯人「山崎留吉」(伊藤雄之助)は、手榴弾と機関銃で武装して、単身「天照大神より続く『万世国家』」に挑戦状を叩き付けた。

もはや伝説とも言っていい「バス皇居突入」のゲリラロケ、どこから、どう攻めても落とせない許認可代官。映画完成に必要な外堀は完全に埋めつくした終戦記念日の翌日、最後の最後に無許可で盗撮されたこの晦日収録の裏には、ゴジ組「大将」を逃がすための「しんがり」(逮捕要員)が準備されていた。そして、その荒っぽい出陣からだいぶ経った2001年の8月15日、戦没者を祀る靖国神社には、開戦後60年の忘却を呼び覚ます、兵装のご老人がいて報道カメラの注目を集めていた。言ってみれば浪士山崎もそのような感じだ。

A BATHING APE」や「あゆ(浜崎)」で市民権を獲得しているミリタリーファッションであるが、これは今さら戦争の記憶を揺り戻すしろものでもない。我々は迷彩Tシャツやフライトジャケットを着込み、鎧兜の五月人形を床の間に飾るが、必ずしも軍国思想を表現している訳ではないのだ。だが、実直そうな年寄りによれよれの歩兵服など着てもらいたくはない、普通の人が見たら間違いなく引く、ヤバい、近寄りたくないと思う、そこには明らかに主張があるからだ。とは言え、周りから浮いた過激な装いであっても、老いた彼は農本思想や武力の誇示を好む愛国右翼ではないことは明らかである。落ち武者のような幽気を放つ大逆犯罪人の、あまりにも素朴な主張は他にあった。

たった一人の『侍』軍隊

ところで、『ゆきゆきて神軍』(1987)で知られる無政府主義者奥崎謙三は、「ヤマザキ天皇を撃て!」と叫びつつ、天皇めがけパチンコ玉を撃って投獄されている、こっちの山崎さんはニューギニア戦で犠牲を強いられた戦友のことである。一方、「天皇が御会いになる、御話しする」と聞いて、「ありがたいことだ、畏れ多いことだ」と言って涙する、生き長らえながら、あっちの世界に逝っているヤマザキトメキチは、天皇暗殺を目論む革命論者でもあり得ない。犯行理由は「先の大戦で失ったか、未帰還となっている子供を返してもらいたい」ことに起因している。それを直接陛下に会って話したい、直訴したいというのが要求のすべてであった。数を頼りに自己満な示威行動を取る、ファッショな若い連中とは明らかに動機が違うのである。

頭がおかしいから無理難題の思いつきで「死んだ子供を返せ」と言っているのか、あるいはまだ死んでいないはずの行方不明者を「戦地から探し出して返してほしい」と、何十年も本気で言い続けたから頭がおかしくなったのか、で、このシーンの意味はまるで変わってくる。行動背景を説明する描写はほとんどない、だがそれは不親切であるというよりも、問題の主因を147分の貴重なフィルムの中で語るのが難しかったからだ。なにしろ「広島任侠界 対 東京歌謡界」の異種格闘における主戦場はその直後にひかえている、いずれもサムライに所縁のある彼らが「黒澤時代劇」の立て役者、馬づら“城代家老”の中に何を見い出すのか?

ただ言えるのは、「当て馬」にされた戦中派の彼が、劇中のセリフで子供と言いかけて“息子”と言い換えていることから、子供は皇軍兵士だったと見て間違いないことだ。ハリウッドのマーティン・シーン親子とは違って、二世代に渡り“現実の戦場”で辛酸をなめなければならなかった不遇の父親とその息子である。「八紘一宇」の昭和妄想狂時代、男子を持つ家は皆天皇陛下のために、大切な跡取りを「人殺しの道具」として差し出していたのだった。

業界噂の註: 「我々は明日の城代である」

「広島任侠界」/菅原文太の代表作『仁義なき戦い』。「東京歌謡界」/ジュリーのヒット曲『サムライ』。劇中登場する二人の主人公はなにげに国家公務員である、「士農工商エタ非人」で言うところの士族にあたる。人間性とは無関係の、その悪しき身分制度は江戸時代に確立された。「黒澤時代劇」/バスジャック犯の伊藤雄之助は、『椿三十郎』で武士階級最上位の城代役を演じていた。そのほとんどが人質で、解放される最後まで出演シーンがなかったのはこの映画とまったく正反対。映画の短くない歴史の中ではこういうキャラクターの逆転劇がしばしば起こりうる、またそこに言外の皮肉をこめることもできる。なお、藩内にはびこる不正を暴こうとして、逆に叛乱の汚名を着せられた若い侍達に、彼がもらしたお茶目で倒錯的なセリフは「乗っている人より馬は丸顔」であった。社会主義思想が台頭していた世相にこじつけて深読みすると、乗っている人は天皇、「馬」は権力を持ち得ない民衆ということになる。

「八紘一宇」/天皇を頂点として世界の家族を一つにするという、侵略戦争正当化のための大日本帝国のスローガン。要するに「エタ非人」扱いの第三国人を増やし、馬車馬のように働かされている、国民の政治不満を少しでも回避するための差別主義イデオロギーである。その言葉に象徴される帝国主義はよりソフトな形に姿を変え、敗戦後も天皇をいただく国体は護持された、だるま落としゲームを途中で投げ出したマッカーサーのおかげで。骨抜きをまぬがれたその国に対して、日本刀片手に正面から決闘を申し入れたのは、「我々は明日のジョーである」というセリフを残して日本を脱出した「よど号ハイジャック犯」の赤軍派だった。





第10番第2楽章「陛下にお話しせねばならん。」


『戦争の記憶』後編
http://www.variety.jp/eiganoron/samurai10-2.html


「散り桜」の季節に、次代をになう異なる世界の男達を引き合わせた老兵は、生意気な1クラスの中学生と、熱血の残滓をまとった教諭を抵当に入れて“坂下門の弾幕”に突入していった……。

ターン レフト

「英霊」として祀られていた戦死者が、実は連合軍の捕虜として生きていた例がある(4万人くらいね、シベリア抑留者60万は含まないよ)。一度家族の戦死を告げられた他の遺族達が再び希望を持ってもおかしくない、生きているなら早く返してほしいと願うのは親心として当然である。しかし、待っても待っても息子は帰って来ない、行政機関を始め方々に捜索を頼るが相手にしてもらえない。戦争のことなど早く忘れたい日本人と、忘れたくても忘れられない日本人の意識のズレは急速に広がっていく(そもそも最初から知らなかったりする平成人ってのは民主的なのかよ)。

何年も窓口をたらい回しにされ続け、終いには誰からも煙たがられるようになった落人は、ついに精神病院に放り込まれる。そんないきさつを語る描写ももちろんないが、そんな哀愁は漂っている。そして、このことはシステムを円滑に働かせるためには必要不可欠な社会の異物排除機能である。やがて退院した“怒りの老人”は、狂人としては意外な緻密計画を企て、なぜか隠し持っていた兇器をたずさえて最終手段に訴える。“休火山”(箱根)の静かな息吹きを観察した帰り途、中坊達を乗せたままジャックされた観光バスは、桜花の名所「千鳥ヶ渕」を出て、左へカーブする三宅坂を下り、国会と警視庁を“右手”に見ながら祝田橋を左折する。そのすぐ先をもう一度左へ曲がると坂下門だ。タイヤを軋ませ突然飛び込んで来たその窮鳥は、なんとフロントガラスを割って皇宮詰め所に手榴弾を投てきしやがった!!

「どうやって武器弾薬を手に入れたのか」という疑問の答えにもなると思うが、人質で円陣の楯を作ってリスクを回避するなどの例から、怒濤の噴煙を上げる山崎は、軍人としては優秀な戦略家であったと考えるしかない。西欧文明と決別して南国の王様となった作戦将校「カーツ大佐」in『地獄の黙示録』(1979/米公開)のように…。さて、そのカーツ(マーロン・ブランド)をターミネート(抹殺)する命を帯びていたのは特殊部隊員の「ウィラード大尉」、演じるのはひと回り以上若いマーティン・シーンであった。『地獄の黙示録』の観客は、「カーツが君臨するカンボジア奥地の森」へと遡上するウィラードの目を通して、属する社会や自らの心の奥底にあるかも知れない異常性を発見していくのだった。

話しを東京にもどそう、「宮様のいらっしゃる千代田の森」へと猛急するのは、所轄で指揮を取る山下警部(菅原文太)。数週後さらに異常な事件解明の特殊任務を、桜田門の長官から直々に命ぜられることになるが、この時はまだ知る由もない…。続々と詰め掛ける応援警察、その他の緊急車両で内堀通りは騒然となる。さっきまで人々に憩いを提供していた皇居前庭にはサイレンと赤色灯が重なり、機動隊員の持つジェラルミンの楯がガチャガチャと高い音を立てて勢揃いする。そして、ジーゼル機がグァラグァラと低いうなりを上げているだけの一瞬の静寂の後に、スピーカーから聞こえて来るのが山下のだみ声でなく、勇壮過激な“ワルキューレの騎行”だったら完璧だった。

君はもう完全に包囲されている

「武器を捨てて出て来なさい!」と、強硬な説得を続ける制服警官から、トラメガを引き継いだキャリア組の山下は、人質のことを考え懐柔策を採用、歩み寄って凶悪犯の要求を聞こうとする。だが、「このとおり武器は置いて行きます」と声を張り上げる山下の背後には、メダリストの狙撃チームが配置に付いて隙をうかがっていた。一方、「地獄の門」をくぐり、ついに首級を奪った暗殺者ウィラードは、カーツを神と崇める原住民の前で血のしたたる牛刀を放り置いていた、脱力しきった目を泳がせながら。その金属音で暗示が解けたように、つられて鉾や槍を地面に置く兵士達。遠巻きに勢ぞろいしたその中には青年「ランス」や「コルビー」(スコット・グレン)もいた。『地獄の黙示録』における、暗い後半部分の唯一の救いが、肉親も心配しているであろう彼らの生還であった。

皇居二重橋前。カーテンで閉ざされた特攻バスのドアが開き、おもむろに事態は動く…、乾いた銃声が城の石垣にこだまし、お掘ではくぐもった爆音とともに水柱が立ち上がる。果たして、天皇陛下との面会はもちろん、息子との再会も幻だった。民主・公明などとはいいながら、「平民にはどうあがいたってできない」ことがあるのだ。血しぶきをあげて墜ちた山崎を、複雑な思いで抱き上げる山下の表情には同情以上のものが浮かんでいる。自らも手傷を負った彼が、世間を騒がせた大迷惑野郎に侮蔑の唾一つ投げかけなかったのはなぜなのか、父親でも思い出していたというのか? その一挙動を呆然と眺めるだけの青年城戸の中で、震えるくらいカッコいい井上堯之のテーマ曲とともに何かが「音」を立てたのはこの時だった。



取るに足らない、敵だとばかり考えていた権力側にも“男気”のある奴はいる、彼となら「一緒に戦える」かも知れない、城戸は偏見を持っていた自分自身へ唾を吐きかけるようにタバコを捨てた。その思考エンジンの逆回転を象徴しているのが、動揺しながら逆さ向きに火を着けてしまった「ハイライト」である。この白く細い円柱型の物体を、渋い顔をしながら投げつける所作は、白骨のこん棒を投げ上げる『月をみるもの』と微かに重なる。『2001年宇宙の旅』に登場したこのヒトザルは、その瞬間、全生態系を掌握し“始祖王”となっていた。映画の中で放物線を描くこん棒は円柱の“核ミサイル衛星”に変身していったが、だったらこのハイライトが変身したものは薄銀色の“プルトニウムポッド”か。それ、の登場は大展開の第2幕、続いて無限のパワーを手に入れる城戸は莫大な力の一部を山下に授けることになる。

アポカリプス ナウ

第1幕の三者糾合シーンは、簡潔に国家観を浮き上がらせると同時に、緊迫する映画導入の山場になった。そして、公開から22年を経た今年(2001年)の夏は「首相の靖国神社参拝問題」、「新しい歴史教科書の採用問題」、そして第2次世界大戦を日米戦に焦点を絞って描いた『パール・ハーバー』(2001)で、時ならぬ国家間戦争の話題で盛り上がっている。“右翼”と“左翼”の違いはおろか、その字句すら知らない世代が主流を占める現在、関係ないからいいやと思ってきたテーマが浮上している。そんな中『くたびれはてた老カーツと、国家を延命させる現代の黙示』とを対照的に取り上げた。長谷川監督による“「国家」なんてものは、「人間が作った最悪のシステムだ」”との掲示板での発言(以下)に、ちょっとした盛り上がりが起きていたからだ。

(2001/08/17の発言“「オフ会」やるかあ!!”より抜粋)

“私は、「掲示板」も「応援団」もまた、個人と個人の出会いの場だと思っている。「国家さん」なんて者が、何処にも存在しないと同じように、「ゴジサイトくん」なんて者も何処にもいるわけではない。そういう意味で、『ゴジサイトが私に喧嘩を売ってきてるんだろう?』という発言には、虚しく哀しい思いがした。

「国家」なんてものは、「人間が作った最悪のシステムだ」と考えている私は、もし、ゴジサイトがほんの少しでも「最悪のシステム」に似てきたら、いの一番に逃げ出すに違いない。社会生活でもネット世界でも、規制やルールなんか、少ないほど良いに決まっている。ルールで縛らなきゃ、維持できないようなシステムなら、潰れてしまうことも別に惜しくはない。いや、潰れてしまえば良いのだ。

ただ、「ゴジサイト」に参加するときに一つだけ肝に銘じるべきは、「自分が他者との出会いを求めている個人である」という認識だと思う。基本はあくまで「個人と個人」なのだ。その認識があるかぎり、他者を傷つければ、自分もまた傷つく。それは誰でも嫌に決まってるから、自然発生的に抑制や諧謔や笑いで、自分の表現を工夫するんだろう。より適確に自分の意志を他の個人に伝えるために……。”  (激動の「ゴジサイト」)


業界噂の註: “ワルキューレの騎行

地獄の黙示録』で、キルゴア中佐率いるヘリ部隊がベトコンの拠点をせん滅する際、敵を心理的に畏縮させるために大音響でかけたワーグナーの曲。勝利は正義にあるのではなく、圧倒的な力を有した者にもたらされるというキルゴアの傲慢さを象徴している。彼はサーフィンをしたいがために、海沿いののどかな村をナパームでイボイノシシとヒトザルしか住めない石器時代に戻してしまった。





第11番第1楽章「行きはよいよい、帰りはこわい。」


『無限の彼方』編
http://www.variety.jp/eiganoron/samurai11-1.html


歌舞伎モノ「シャア」専用

ちょうど20年前の1982年、季節変わり目の3月、『機動戦士ガンダムIIIめぐりあい宇宙編』にてシリーズは一応の終止符を打った。戦場を離脱する、緋色の戦艦の窓辺にたたずむ「シャア・アズナブル」の“黒いシルエット”とともに。

大戦直後の大阪で、少年「手塚治虫」に国策動画の洗礼を与えて以来、アニメと縁遠くなっていた伝統の松竹劇場は、白を基調に黄色と青と赤で彩られたロボットの登場する、おたく系怪物映画「ガンダムファースト」で大儲けした。「ポスター」やら「セル画」やらの関連グッズも売れに売れ、ボックスオフィスには通常の3倍のスピードで、ざくざくと現ナマが放り込まれて行ったのである。そして、歌舞伎と邦画産業を牛耳る経営者らの固定観念は崩壊し、映画製作環境における実写とアニメの力関係が微妙に変わり出した。だが、どんな企画にも安易にGOが出たので、粗製濫造が相次ぎ、熱に浮かされた支持者が見切りをつけるのも時間の問題だった…。

ガンダムストーリーの基本は、スペースコロニー・サイド7で生活していた少年達が、地球連邦からの独立をはかるジオン公国との戦争に巻き込まれ「肉親と離ればなれになる」という、未来版「十五少年漂流記」にある。彼らの乗船する強襲揚陸艦ホワイトベース」は、避難のために一旦地球に降り立つことができたが、仇敵「シャア」を引き寄せる囮として再び“そら”(宇宙)へと旅立つ運命にあった。そして映画3作目、幾度かの出逢いと戦いの中で、超人的能力を身に付けていった主人公「アムロ・レイ」は、白いモビルスーツを駆り、追撃する戦艦との挟撃をはかった迎撃艦隊を、流麗なオープニングBGMの余韻も醒めやらない間に撃破した。たたみかけるアクションで、出だしのつかみともなったこのシークエンスほど、けれん味があってアニメヲタどもを狂喜させた個所はない。

蒼い地球の成層圏を眼下に見ながら余裕で待ち構える歴戦の猛者ドレン大尉、万一に備え宇宙服の着用を促す部下を一笑に伏す。ただ、噂にとどろいている戦闘機、『RX-78ガンダム』の出撃確認ができていないことだけが不安の種だ。その間、護衛の戦闘爆撃機(『MS-R09リック・ドム』)が一機やられる、そこへ「高熱源体接近」の報、「ミサイルか?」、まもなく隣の巡洋艦もビームの直撃で大破する。至近で衝撃を受け極度に混乱する艦橋、「ガンダム」に違いないと恐れおののくドレンの声に自信はもうなくなっている。「シロイヤツだ…」という言葉を受けて、無限に広がる宇宙に画面が移動すると、そこへ彗星のようにあらわれる「ガンダム」、護衛機もろとも旗艦を吹っ飛ばすアムロの横顔に力んだ表情はない。

子供向け「変型合体ロボ」マンガを、大幅にクオリティーアップしたこの劇場用アニメ作品は、当時の高校生・大学生、あるいは映像研究者をもうならせるオリジナリテイーと完成度を誇っていた。「光る宇宙」の映像や「ニュータイプ(新人類)への革新」など、その大胆な発想には『2001年宇宙の旅』のSF理念、「スターゲイト」 「スターチャイルドの誕生」も貢献している、テレビシリーズオープニングの「サンライズ」(月、地球、太陽の直列)には、確かにオマージュとしての意味が込められている(当初キューブリックは、アトムの手塚治虫に『2001年宇宙の旅』のSF設定に関する協力を求めていた。願いはかなわなかったが、その思い入れは『A.I.』となって結実する。ちなみに、この映画は地の底を這っていた松竹を、奇跡的に救った)。

企画したのは、鉄腕アトムのスタッフが中心となって設立された制作スタジオ「日本サンライズ」(現サンライズ)。映像の中身だけにこだわり、ビジネスを宇宙の果てに追いやった「MGM」(『2001宇宙』)や、その挙げ句倒産した「虫プロ」(『アトム』)がなければ、「大ガンダム産業」は産まれなかった。“ガンプラ”の熱狂(300円のプラモデルを買うために中学生が徹夜の行列をし社会問題にもなった)など、一連のガンダムブームに刺激を受けて、才能を持つ若いクリエーター達がどっとアニメの世界に流れ込んで、従来システムの日本映画の質がガタ落ちしたのも無理はない。だが、『太陽を盗んだ男』が製作された時には、まだかろうじて実写フィルムの方が構造的に勝っていた。

デスドライブ

啓蟄の暴風雨」が去った後、灰色の雲の切れ目から穏やかな陽射しが差し込むように、城戸がハイライトを捨ててから、この青春映画の印象は大きく変質する。それまでどうにか日本映画の枠内に収まっていた異界のマグマが噴出先を探し出し、枯れ枝の上で舌舐めずりを開始するのはこれからである。

この切り替えに、「はっ」として心踊らせない人と娯楽映画の話をするのは難しい。窮屈さに身をよじらせながら、映画は堅い樹の幹に体をこすり付け、時間をかけて脱皮しようとする。この「絶妙の間(タメ)」をどうやって伝えたらいいのか、それを説明するための適切な言語を知っているだろうか。くちなわに見入られた「黒蛙」のように、画面から一瞬たりとて目が離せなくなってしまっている不思議なつなぎ。

生徒達の憧憬と野良ネコとの戯れ、夜露にまみれた偵察と、国家を出し抜くためのトレーニング、物語りの進行を停滞させるようないくつかの蛹のシーンを挟み、城戸はもう一度くわえたままのハイライトを吐き捨てる。場所は中野あたりの集合住宅屋上、国電中央総武線のダイナミズムを見下ろし、カメラは意味ありげに「西新宿の超高層ビル」を写し込む、第1の幕が下りる。レンズのフォーカスが回転しながらスローで落下するハイライトを追いかけ、バックオーケストラに“ツァラトゥストラはかく語りき”を用いていたら完璧だった。

歌舞伎の舞台で大見得を切るように、ウサギ飛んで、「沈む太陽」の逆光を横顔に決めた役者は、茨城県東海村原子力発電所へ、覚悟を決めての深夜襲撃ドライブに至る。惰眠を貪る街の夜闇を背景に、城戸の顔が時おりフラッシュする演出は、「スターゲイト」に迷い込んだボーマン船長(キア・デュリア)と相対している、高速で通り過ぎるイルミネーションが「スリットスキャン」の代わりである。観念的な揺さぶりのピークに射出された彗星のような精子は、発現するチャンスを初めて与えられ、競合する兵隊達と存亡をかけた戦いを続ける。その「ヴァギナ戦」最後の勝者のみが、世を変革する自由を手に入れるのだ。

業界噂の註:“ツァラトゥストラはかく語りき

ニーチェの超人思想を表現したリヒャルト・シュトラウス交響曲。『2001年宇宙の旅』のサルが「骨のこん棒」を投げる(原始人へ進化する)際に、かかっていた曲として知っている人の方が多いかも知れない。コッポラが「ワルキューレ」で現世ヒエラルキーの最上階を見せてくれたのに対し、キューブリックはその上にHALってものを置いてみたかったのだろう、天皇の上に“9番”を置いてみたゴジのように。







第11番第2楽章「親はとっくのむかしに殺した。」


『超人一直線』編
http://www.variety.jp/eiganoron/samurai11-2.html


軍規に違反して手柄を立てようとした、「強権を操る側」に属する一下っ端の勇み足で、アムロは子供マンガの主人公でありながら“核爆発”の引き金を引き、あろうことか父親を廃人に追い込んでいたのだ。

アムロガンダム行きまーす!」

爆撃要請をした後、顔に迷彩ペイントを施して、混濁の沼から這い上がった歌舞伎者ウィラードにとって、「カーツ砦の攻略」は、死と隣り合わせの旅の帰結であった。坂下門の山下に、「王位を継承する」ウィラードと同等の畏敬を見た城戸は、顔を靴墨で黒く塗りたくり、最も警備の薄い海辺、ナトリウムをとかした生命の源流から遡上して「日本原電プラント」にインベードした、彼にとってはこれからが望むべき旅の始まりなのだ…。「スゥー、ハァー。スゥー、ハァー」、処女膜を破り核の卵巣にゼロ方向から接近する「クロイヤツ」。スーパーマンでもヤッターマンでもウルトラマンでも、言い回しはなんでもいいが、城戸は「超・人」への第一歩を踏み出し、未知なる変容の息吹きを体感するのであった。

監視カメラだけが見守る花道を通り、光源を配したステージへ足早に駆け上がるインベイダーは国家の最大機密「プルトニウム」に手を伸ばす、レギュレーターからもれる「呼吸ノイズ」が嫌が応でも緊張を増幅させる。なけなしの予算でカモフラージュした大道具セットも含め、もはやハリウッドもどきの表現技巧であるが、なにしろ効果音である。サイド7に潜入して最初の破壊活動をした、ガスマスクのZAKU-II隊も、エピソードIVのだみ声Darth Vaderも、印象的だったボーマンの呼吸音と無関係ではない。

連想したのは『2001年宇宙の旅』、主人公ボーマンは叛乱したHAL(ハル・コンピューター)をターミネートするため、“スーハー”言いながら立入り制限されている心臓部へ迫った。宇宙船の機能が完全にHALに制圧されていたため、万一に備えてヘルメットとボンベが必要であったのだ。そして通路の大奥にたどり着く、次の扉さえ開けられたら、王様HALは降伏 (チェックメイト)せざるを得ない。

太陽を盗んだ男』がクランクインされる直前の1979年4月7日、ガンダム第1話の冒頭に登場し、子供離れの設定コンセプトを決定づけたのは、量産型未来兵器『MS-06ザク』。ぎこちない動きをしていた従来の格闘ロボットを、いわゆる“モビルスーツ”と呼ばせて命を吹き込んだことにより、子供マンガという現場の下級製作陣の処遇は覆られた。その人型宇宙戦闘機は、“スー、ハー”と、ゆっくり細く息継ぎをしながらスペースコロニー港湾部に接岸すると、圧力扉の開閉レバーをマニュピレーターで器用に回し、小鳥さえずる平和な人工大地へと舞って降りた。

本編が始ってからここまで音声の解説はない、だが緊迫感を伝える「気流音」によって、ルーティーンではない隠密行動をしているのがわかる。そして、偵察のみが任務だったその工作員の一人(新兵ジーン)は、「ランボー」のような正義感からではなく、若さ故の功名心から、上官(シャア少佐)の命令を無視して、サイド7内連邦軍の施設を実弾襲撃するのだった。

ついでながら付け加えると、名画座での上映が絶えることのない、不朽の演目『太陽を盗んだ男』の前奏も、日本男子の半数以上が見ているガンダムインデックスとかなり似ている。大都市を一瞬で溶解させる大熱線、爆響のフェードアウトに闇を照らし始める太陽、一呼吸置いて画面を横切る2羽の鳥影、そして、飄々と吹きすさぶ風の音とともに双眼鏡を覗き込む不敵な男の姿。次にレンズ越しのフレームが厳重警備の大型施設を無言で捕らえて瞬きすると、「大あくび」をもよおす出勤前のありふれた日常に帰っていく…。

ブタもおだてりゃ

その朝、家で研究に没頭していた主人公アムロ・レイは、非難警報にさえ動じなかった、というよりも危機に関して鈍感であった。だが、突然現れた「巨大な敵」を見上げ、幼なじみの家族が爆殺され、蹂躙される“イボイノシシ達”の悲鳴を目の当たりにして、ようやく目を覚まし、「絶望に沈む悲しみ」をふりはらうのであった。

元服とは無縁な世界で生きて来た十五歳、個人としての無力を実感した彼は、軍属の父を頼る道すがら、偶然にも連邦軍の秘密書類を拾っている、これには巨人『ザク』をも上回る“戦略兵器”のことが記されていた。コンピューター好きで有名なアムロは瞬時にしてすべてを理解し、社会法規を忘れてそれの寸借をくわだてる。「スゴイ、5倍以上のエネルギーゲインがある」と言わせた、そのスーパーウエポンの名は“ガンダム”という。

惨禍で行方不明となった正規パイロットの代わりに、女性の体で言えば子宮に位置する操縦席に潜り込んだのは「お約束」である。そんな異変を感じて“白いモビルスーツ”に警戒の銃口を向けるザク、だが絶対的優位にいたはずの攻撃者らが退却を決意するのに、さしたる時間はいらなかった。驚異的なポテンシャルを目の当たりにして、巨体を揺さぶりジャンプして逃げるザクを、操作素人が搭乗するガンダムは追い縋ってプラズマ刃を抜いた。

間髪、を入れず「核熱融合炉」を両断されたザクは、コロニー隔壁をも破壊する大爆裂を引き起こしていた。猛烈な勢いで竜巻き流出する爆煙、ひとり生き残った戦争プロフェッショナルは、土埃の中から我を忘れて突っ込んでくる、仲間を殺された怨念とともに。こいつまで斬ったら、止めどもない殺りくゲームのスタートボタンが押されてしまう、突然浮かんだ冷静な考えが、妙な間合いを生んだ。そして、突き付けた灼熱の刀は急所のみを貫いて、機械制御の獰猛な“ヒョウ”は機関を停止した。

シロオビ柔道着でフェンスをのぼる

ここでガンダムが使用した「骨の棍棒ビームサーベル”」は、偶然にも『太陽を盗んだ男』のキーアイテム「プルトニウムポッド」にも似ているが、元はと言えばルーカス版『隠し砦の三悪人』に出ていた「ライトセーバー」をまねたものだ。したがって、世界が100人の村でできていたら…、ごめん何人が見ているか知らない。もとい、昨日(5/3.2002)、世界中で一番多くの人間に見られていたハリウッド映画、『スター・ウォーズ』(1977/特別編1997) を意識して作られた『機動戦士ガンダム』には、海を越えて戻ってきた「黒澤“ジダイ劇”」の遺伝子が受け継がれているのである。

くわしく言えばキリがないが、“ジェダイ劇”の騎士「オビ・ワン・ケノービ」(外人には「オビは黒帯」=「強い」がそう聞こえた)の配役に、『隠し砦』で侍大将を演じた三船敏郎がイメージされていた(が無名のルーカスはそのオファーを蹴られる)ことからわかるよう、三船主演映画の最高傑作『椿三十郎』ラストの決闘を再現したかのようなポーズを決めたガンダムに、鎧武者をダブらせるのは無理からぬことなのだ。

ところで、剣の達人ダース・ベイダーが窮地に陥るのは 「ルーク・スカイウォーカー」(なぜか柔道着を着ている息子)との対決の時(エピソードVI)であったが、それと同様な伏線が初回から用意されているところが、この子供マンガのひねくれたところである。連邦軍の最重要秘密兵器ガンダムの開発者「テム・レイ大尉」は、避難民よりもモビルスーツの安全確保を優位に考え息子アムロの反発を買う。そして、孤軍奮闘むなしく、あっという間にバルカン砲を撃ちつくす試作機(RX-78-2)を見て、「なんて攻撃の仕方だ、誰がコックピットにいる!」と、保護監督者にあるまじき無責任な言動をしている。

奇襲に対しなすすべがないどころか、民間人に有線ミサイルを誤射している施設防衛隊に代わって息子ががんばっているのに…。だが直後、そのしっぺ返しに、自分が設計したガンダムのデビュー戦に巻き込まれ宇宙空間に吸い出されてしまう。妻「カマリア」を地球において宇宙開発に生涯を賭けたテムは、言わば「二人の息子」の初陣のために、一命は取りとめたものの、重大な機能障害を抱えてしまうという皮肉な人生を歩むのであった。

業界噂の註:「ヤッターマンでも」

なぜか城戸は原爆を完成させた後「やったー、やったー、“やったーまん! ”」と言っている(と、旧アニメファンは断言している)。1977年から1979年にかけて放送されて子供達の圧倒的人気を得ていたテレビマンガ(後期の演出にはキャメロンやベッソンにも影響を与えた「押井 守」が参加している)のことである。さて、その「ヤッターマン」(竜の子プロ)から流行ったことわざ、「ブタもおだてりゃ木にのぼる」を生んだ悪役「ドロンジョ」「ボヤッキー」「トンズラー」の、かわいいが勝ち気な姫と、ずる賢いがどこか間の抜けたデコボココンビ、というキャラクター設定の原形は、「隠し砦の三悪人」(1958)における逃亡中の姫と、それを助ける百姓侍にあると思われる。イメージしにくい人は「レイア姫」と「C-3PO」、「R2-D2」をあてはめるとよい、だからといって、国を追われた亡きジオン・ダイクン(建国者)の娘「セイラ」や、軟弱者「カイ」、柔道一直線「ハヤト」とも対応しているかというと、そこまで一致している訳ではない。

   秋月の姫「雪姫」(金二百貫)→
      「レイア姫」(デス・スターの見取り図)→ 「セイラ」(「ホワイトベース」と避難民)
 
   秋月重臣「真壁六郎太」→
      「オビ・ワン・ケノービ」(後の「ルーク」)→ 「ガンダム」(後の「アムロ」)
 
   足軽「太平」「又七」→
      「C-3PO」「R2-D2」→ 「ガンキャノン」(「カイ」)「ガンタンク」(「ハヤト」)
 
   敵将「田所兵衛」(『姿三四郎』の藤田進)→
      「ダース・ベイダー」(「ハン・ソロ」)→ 「シャア」(「スレッガー」)

業界噂の註:「巨大な敵」、「絶望に沈む悲しみ」

巨人の星』等で知られるアニソン界のゴールドスミス、渡辺岳夫(時代劇でも数多くの楽曲を手掛けている)作曲による主題歌「翔べ! ガンダム」にあった言葉。全編に流れる意味深いテーマを独特のセンスで表現した作詞者は井萩麟、井萩というのは活動拠点のあった杉並の地名のことで、実は現在アニメ界の神様となっている富野由悠季(「海のトリトン」「イデオン」など)のペンネームである。激烈に仕事をこなすことで有名だった彼は、当時「竜の子プロ」の外注なんかも引き受けていた。また、竜の子では新人であった巨匠押井守(「うる星やつら」「パトレーバー」など)が、地理的に近いサンライズのアルバイトをすることもあったので、彼らが安月給でこき使われていた「中央線沿線」というのは、日本の微ハリウッドみたいなものだったのだ。今であればスタジオジブリ(及びジブリ美術館)を引き合いに出せるから、業界にくわしくない人でも納得いただけるだろう。そのような活力感にあふれた場所を城戸の住居に選んだ、というのも偶然とはいえ悪くない。映画の冒頭、柔道着でフェンスを駆け登っていたサルが京成線の下町や、東急東横、あるいは田園都市線の高級住宅街に住んでいたらがっかりだ。






第11番第3楽章「あんまりバカが博打にこっちゃだめよ。」


『極人の道』編
http://www.variety.jp/eiganoron/samurai11-3.html


人の痛みを計算機に入れ忘れた、連合システム障害の赤っ恥銀行には自らを総括して、『連合赤銀』とでも名付けた映画を撮ってもらおうか(で、二重に振り込まれたショ場代でもう一勝負)。

仁義の墓場

“親”斬りつけ映画『青春の殺人者』でデビューした長谷川和彦の、2回目の監督作『太陽を盗んだ男』にも、ガンダムと似たような「父殺し神話(エディプス・コンプレックス)」は見え隠れしている。殺されたのは観念上のオヤジ、バスジャック犯の「ヤマザキトメキチ」である。身を挺して神国を守り、その身を粉にして昭和の繁栄を築いた世代は、新たに生じつつあった若い文化にとって、もはや路傍の石ほどの存在でしかなかった。なにかと口うるさく子供の面倒を見るのは、すべて愛情のためだったが、あまりにも激しい世俗ギャップは祖国の子孫をいらだたせるだけだったのだ。

無関心という優しさが充満する町の共同体から、ワルガキどもに社会の掟を教えてくれた頑固親父が消え、今や他人同士が介入しあうのは、ひとたび事件が起きてからだけとなってしまった。運悪く渦中に巻き込まれたって、今は「キャッシュ」や「ローン」と引き換えの代理人が、なんでも揉み消してくれる時代であり、システムを介して間接的なふれ合いをした方が、大多数の人間にとって居心地のよい社会を生んだのは事実である。ま、言葉と国籍と健康保険証があり、緊張感のない日本総領事館に駆け込む必要がなければの話であるが。

その、システムを中央で集中的に管理する発想が、人の上に人を作る巨大ピラミッド型国家の成り立ちである。勢い、細かい部分までは目が行き届かないところもあるが、とりあえず言われるまま従っておけば、霞ヶ関のお上に意地悪されることはない。その上意下達の大原則に口を挟めば「武装警官」が飛んで来て、ヤマザキトメキチのような運命をたどることになる。であれば、まして他人同士のもめ事に、自らを危険にさらしてまで首を突っ込む必要はない、さわらぬ亡命者にたたりなしである。

だが時に、生死に関わるトラブルも、自分自身あるいは運転するバスの乗客、家族、社員、生徒の身に、避け切れず降り掛かってくる。恥も外聞もなく逃げだせればまだよいが、相手が卑劣な手段を用いて脅迫に及んだらどうするか。生命保全の権利が万国共通のお題目でないことに気付き、東大法学部で培った法知識も、TBCで磨きあげた女っぷりも、NOVAで学んだ語学力も、銀座のクラブ桃鳳で巻き上げた大金も、築地の料亭匠千久で交わした根回しも、すべて無用となるのは「抗いきれない暴力」を眼前に突き付けられた時である。

近代装備の国家暴力に無条件で屈した日本は、ジャズとハーシーズチョコレートの米軍統治を受ける。「GHQ」(「ジェネラル・ヘッドクォーターズ」)による強力な指導のもと、再び軍の台頭を許さないよう民主意識が移植され、人々に甘い菓子のような安寧が訪れたかに見えた。だが実際ヤミで社会を動かしていたのは暴力団を背景にした旧来の商人達であり、上からのプレッシャーは中間搾取者を通過して、より弱い者へと向かって行くことに変わりはなかった。つまるところ、敗戦により一度御破算になった「ゴリ押しの権力機構」が、軍国時代とは別のあるじのもとに鞍替えしたに過ぎなかったのである。

男は黙ってサッポロビール(三船敏郎)

有産者の権利しか目に入らなかった日帝(絶滅語)は、富国とインフラ整備の美名のもと、庶民の既得権はく奪に成功し、馬場を潰して空港を建設、干潟を埋め立て猛毒を垂れ流すコンビナートを誘致、峡谷を切り開いて鹿しか通らないスーパー林道を行き渡らせた。想えば、トンネル工事の一線で犠牲になったのは強制連行された名もない朝鮮人である、意を決してタコ部屋(絶滅危惧語)から脱走し、前途多難な帰国を果たした文盲の在日労働者がいたのもそんなに昔のことではない。

経済の歩みとはそういうものである。戦後のどさくさにまぎれて復興援助資本を独占した企業群は、アメリカに対しちぎれる勢いで尻尾を振り続け、隣国の戦争では民族の誇りを踏み台にして、景気を大回復(朝鮮特需)することができたのだった。生産調整の為にキャベツやイワシや高級服を大量廃棄する我々は、アメリカが経済利潤の大半を“セイバー”ジェット機と“アポロ”宇宙船の製造に費やしていた頃、だぶついた利益をせっせと銀行に預けて家電メーカーにまわし、ビーバールームエアコンを売ってさらに私腹を肥やして行くことができた。

20世紀の中頃、「親族を切り裂く38度線」から始まったその歪みは、「命がけの亡命劇」として現在も衆目にさらされているが、プロ野球観戦の合間に見る初見映像は、吹き出しサッポロビールほどの切迫感しか与えなかった。飢餓世界の窮状をしばし忘れさせるシズルなCMで、ブランド形成しているそのビールの歴史には、財閥が一儲けを目論んで利権を買い漁った経緯がある、最も利幅が大きい大産業だからだ、そりゃみずほ銀行UFJ銀行もゴマをすりすり金を貸すだろうて。そうやって、体格のいいアメリカ人に憧れて育った貧しい極東の住民は、政治・マスコミ・生産を物欲の下に一体化させ、今や「1400兆円」もの金融資産を長者番付で披露している。

方や、ひもじさに堪えきれない子供のしゃくり声と母親の悲鳴、仮に悪魔に魂を売ったとしても家族を救えない父親の嗚咽…。彼らに0.0000000001兆円だって貸せられない黄色い看板のプロミス、いや「フレンズ・ローン」は、日本の独身中学教師には健康保険証一枚でジャブジャブ大金を貸し付けることができる、文科省(劇中は文部省)が保証人だからだ。だが、先に逃げていた親類からの援助も受けられず、自身と幼子の「生命を担保」(人質)に、瀋陽の領事館へ特攻せざるをえなかった北のオヤジは、その大博打の“ツケ”をどう支払うのか。

一流の“演出家”によって世界中に配信できた「坂下門よりリアル」な隠し撮り突入映像は、くり返しくり返し飽きるほど放映され、一人歩きしだしたことでがぜんパワーを増した。その仕組みを応用し、金融を絡めて製作、配給、興行、回収をシステムとして完成させたものが映画というメディアに昇格する。しかし、影響力がデカイかわりに失敗のリスクも小さくない、銀行は目先のことしか考えないから見えないものへの投資継続は拒む。だから、大企業の大京には税金もらって4000億円の借金棒引きに応じることができても、文化に貢献する映画配給会社のワンマン社長からは身ぐるみ剥がさなければならないのだ。

暴力を巧妙に偽装し温存している、そんな不平等はびこる階級世界のソーシャルボトムでは、不満を抱えた紊乱分子が仁義なき抗争をくり広げている。時に、黙っていられない無鉄砲な男の刃は属する組織の家長に向けられることもあった。

 

業界噂の註:『仁義の墓場

戦後暴力犯罪史上、最も凶暴と恐れられた実在やくざを深作欣二が情け容赦なく描いた実録映画(1975)。自分の親分すら斬りつける外道を演じるのは、「さあ、行くぞ9番」と言ってビルの屋上からダイブした、丸の内警察署警部「山下満州男」の菅原文太、ではなく、西部警察署部長刑事「大門圭介」の渡哲也だから間違えないように。ちなみに、「横列パトカー軍団のカーチェイス」を日本でやったのは『太陽を盗んだ男』の方が元祖である(『西部警察』の放映は1979年10月14日より、『太陽』の公開は同月6日)。さて、6月22日には設定を現代に置き換えた三池崇史版(長谷川監督と同じ「今村組」元舎弟)の新作も公開される、タイトルは『新・仁義の墓場』、アウトローの道を壮絶に生きて、三十そこそこでビルの屋上から飛び下りる男を岸谷五朗が演じる。

普通死ぬな、あそこから跳べば。







第11番第4楽章「ま、じゃまだけはせんように。」


『ブライダル』編
http://www.variety.jp/eiganoron/samurai11-4.html


マニュアルなき戦い

「皇居だ、皇居へ行け!」国権による集団暴力に堪えきれなくなったその男は、ついになりふりかまわない暴挙に出る。目の前で光る機銃のマズルフラッシュと、嗅ぎ慣れない火薬の臭いに「うふぇ、ふぇ、ふぁい…」と、無理矢理絞り出した悲痛な声で返事をするバスの運転手、反して、好奇心旺盛な引率の城戸は毅然と、というか天然入ったボケをかまし山崎の望みを聞き出している、「あのう、皇居へ行って何をするんですか?」。

捨て身で妥協の余地のない老人相手には、怒らせないことがなにより肝要だ。日暮れた後、一旦バスを降りて、犯行要求とともに人格破壊者のプロファイルを現場指揮者に伝えると、城戸は再び絶対的権力を握る者の軍門に下る。「スリーピースをまとったスジモノ、という感じの山下という男は頼れそうだ、生徒のことも心配だが、彼がどのように事件を収束するか見てみたい」そんな風情を浮かべながら城戸は踵を返す。喧嘩仲裁屋の極道、ではない、人質解放交渉役の警部と共に、無抵抗の意思表示として「白いハンカチ」をそれぞれ掲げながら。

人類の曙光が差し始めたアフリカのサバンナで、ヒトザル『月をみるもの』が“暴力システム”を発明してから300万年、繁栄を極めつつあった東の国のド中枢では、期せずして妙な邂逅が生まれていた。ゆっくりと、バスのステップに足を踏み入れた二人の男達は山崎の前でひざまずいている。先んじて、頭の上で両手を組む行動を一致させることで、すなわち、年配者に対する服従を共通体験することで、彼らは義兄弟としての契りを交わすのであった、親分の前でけじめの盃を分け合う仁侠道のように。いや、「純白のハンカチ」があるからそれは“婚礼”も暗示していたのかも知れない、時おり女装する城戸のジェンダー(社会的性別)はデジタルに分類することができないからだ。

であればこのセレモニーが、後に「生殖」、「妊娠」、「出産」へと繋がって行ってもおかしくない。「未曾有のパワー“生誕”」を前にして、異なる個体の遺伝子は引き合い、結合するのであった(映画中盤、メーデーの渋谷にはためく目印は“迫る死期”を暗喩する「黒い旗竿」、これらの布きれは記号的に対称関係にあると言える)。やがて、その極限儀式におけるシンパシーは、数発の狙撃弾によって断ち切られ、親分山崎(神父)は職務をまっとうする勇敢な「二人の子分」に見守られながら、志し半ばに人生の幕を引かなければならないのであった。なぜなら個人にとっての最も身近な支配、「父権の征服」、それがより強大な力を手に入れる者の最初の克服条件であったからなのだ。

屈服を装いながら組(家)の威信を守り、ついに最大の手柄を抱きかかえた山下は、出迎えの参列者に見守られながら城戸の前をゆっくり歩み、野太い声でねぎらうと、苦痛にうめきながら自らも救急車の中に倒れ込んで行く…。『太陽を盗んだ男』では、登場人物達の家族関係は明らかにされないが、少なくともこの場面では、城戸の他者に対する介在願望を感じ取ることができる、にもかかわらず力足りずに出鼻をくじかれた切羽詰まった焦燥も含めて。そして、淡く色気付いた末弟の決意は従順な山下とは正反対、“家の因習”を乗り越えようという方向に進む、「まずはこの男を掌中にしよう」。

スカーフェイス

ルークは「フォース」を、アムロは「ガンダム」を手に入れることで、それぞれの「通過儀礼(父殺し)」を成し遂げている。そして、いずれの父親も職務に忠実で、その才覚は組織の中において群を抜くものであった。殊にルークの父親ダース・ベイダー(「アナキン・スカイウォーカー」)は、若き頃、正義の騎士(ジェダイの弟子「パダワン」)として多くの民を救っている。しかし、能力を極めるにしたがって重責がのしかかり、個人を取り巻く状況は劇的に変化して行った(『エピソード1 ファントム・メナス』のポスターでは、地面にのびたアナキン坊やの影がすでにダース・ベイダーのシルエットになっている)。

「全体利益の為に自身の感情を押し殺すのか、それともすべてを敵に回してでも個人の愛をつらぬくのか? 」。非情にもドラマは切迫の度を強め、彼は愛するたった一人のひとをついに護り切れなかった時、“怒りと憎しみ”をライトセーバーに込め、「無用な残虐行為」に一瞬我を忘れるのであった…。彼はなぜ『エピソード2 クローンの攻撃』を境にして邪悪な道に迷い込んで行くのか、その理由は『エピソード3』で明らかになるはずである、事実上の完結編『スター・ウォーズ ジェダイの復讐』の中で、マスクをはずして初めて見せた“顔の傷”の理由も。

このヒントは『隠し砦の三悪人』の終盤、いかにも印象的な“黒い影”となって再び現れた敵将「田所兵衛」にある。彼は旧知の侍大将との決戦に破れ、部下の前で生き恥をかかされた上に、主君からは顔を醜く変える程の暴行を受けていたのだった。アナキンと同様、乗り越えるべき父親のいないシャアは、傷を隠すためと偽り、端正で美しい顔を無表情なマスクで被って、父「ジオン・ダイクン」を失脚させた一族の、ターミネート(抹殺)を謀って行かざるを得なかった。そして遂にアムロとの肉弾戦に及ぶと、事実額に傷を作り鮮血を流すのである。純粋な精神を持ちながら、世を儚んで自暴自棄な感情に溺れた彼らは、ある意味ダークサイドに取りつかれていたと言える。

踊る大逃亡線『太陽を盗んだ男』の最終楽譜、フェニックス作戦が敢行された後の武道館。原爆を奪還して勇走する城戸に、ようやく肉迫するも敗北を許した山下は、目尻から額の生え際にかけて、手負いの深い溝を彫り込んでいる。彼は東京に住む無辜(むこ)の民を救うため、既知の女性を一人死に追いやっていた。スカー(心と体の傷)はその時の代償であった。さて、物語りは“遠い遠い”昔の話にまで遡り、旧江戸城二重橋の前でたたずむ「黒依のシルエット」。場所を北の丸公園に移動し、スーハーと荒い息遣いでバスを強襲した不審者を、カメラはなめるように下から見上げていく、そう、ダース・ベイダー初登場時のように。だから、白髪を垂らし緊張の汗をにじませているヤマザキの顔に、日本帝国覇権戦争の名残り傷、だめ押しで“銀河帝国のテーマ曲”が流れていたら完璧だった。

著: 伊達影介

 

業界噂の註:“銀河帝国のテーマ曲”

「ジャン、ジャン、ジャン。ジャージャ、ジャン、ジャージャ、ジャン」の、言わずと知れた『スター・ウォーズ交響曲、作曲は「ジョン・ウィリアムス」。グスターヴ・ホルスト組曲『惑星』における「火星/戦争をもたらす者」に曲調が似ていることから、理不尽な暴力に対する暗黙のメッセージが込められている、と理解するのが頭良さげでお薦めである。「てーいこくはー、つよーい、つよーい」の替え歌も流行ったなぁ、というところで「ゴジラゴジラゴジラがやあってくる、ゴジラゴジラゴジラがやあってくる」の伊福部昭の曲調を思い出した。忍び寄る怪物(戦争)の緊迫感はジョーズのジョン・ウィリアムスではなく、日本のサムライが世界でもっとも早く効果的に映画館で表現したのだった。

 















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戦艦の論 THE SEVEN XII「はーい、もしもし、ゼロです。」










15年前に途中まで描いて放置していたところを、『シン・ゴジラ』ブームの影響で仕上げてみた。

「ジャスト ユーエス-ジャパン ソー ウィンウィン。」

カヨコ・アン・パタースン(石原さとみさん) ではなく、沢井零子(池上季実子さん)。ちなみに、「火器使用も含め本省に検討の時間をいただきたい」防衛大臣余貴美子さん)下の名は麗子。


ともあれ、『シン・ゴジラ』が引き金となって、ある映画も話題になっている。






【一部転載】(1) 下記以外もよくまとまっている ↓「怪獣の溜息」より

太陽を盗んだ男』は、樋口監督が大好きな映画という事で、『シン・ゴジラ』にもその影響は強く現われております。
紫色に輝くチェレンコフ光科学技術館なんかもそうなんですが、一番のポイントは、『シン・ゴジラ』の石原さとみ演じるカヨコ・アン・パタースンが、『太陽を盗んだ男』のヒロインである池上季実子演じる沢井零子に容姿・性格含めてそっくりというところであります。この記事を作成するに当たって管理人は『太陽を〜』を観直したのですが、もう池上季実子石原さとみに見えて仕方ありませんでした(笑)。
因みに『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』では、本作を代表する劇判曲「YAMASHITA」が使用されていたりもします。
http://mogera594.blog9.fc2.com/blog-entry-1409.html





この時、すでに箝口令破られている ↓ 
さらに、「科学者が〜」はネタバレの可能性大。



【一部転載】(2) 「2ちゃんねる 太陽を盗んだ男 part6」より

723 :この子の名無しのお祝いに:2015/11/19(木) 22:56:39.00 ID:9xlsJGgl
先日科学技術館の屋上で「シン・ゴジラ」の撮影があったのですが、樋口監督がこの映画の台詞をブツブツ言ってました。
ラストは同じ場所でロケしたみたいで、監督自身かなりこの映画好きみたいでした。

724 :この子の名無しのお祝いに:2015/11/19(木) 23:18:28.10 ID:+sZxzK9U
確かにゴジラも核だな
科学者がゴジラを作っちゃったみたいな話にでもするんかな

725 :この子の名無しのお祝いに:2015/11/20(金) 00:27:31.49 id:vPE91X64
両方ともゴジってことですばい




【一部転載】(3)  公式発言はこちら ↓ 
 
 庵野総監督・樋口監督がリスペクトする映画 !!
「今夏公開中の映画「シン・ゴジラ」に科学技術館がロケ地で登場」
http://www.jsf.or.jp/info/2016/08/shin-godzilla.php




【一部転載】(4)  公開初日のレビュー ↓ 「Yの王宮」より

なにより最後の指揮所が太陽を盗んだ男科学技術館屋上。これ、出たとき泣きましたね。なるほど!と。
http://d.hatena.ne.jp/p0lar-star/20160729


【一部転載】(5)  合わせて読むべし

庵野・樋口の融合反応
〜 本当はゴジラではなく『シン・キドマコト』を撮りたかったのではないか

この夏、話題となった『ニッポン 対 ゴジラ』は、原題が『日本 対 俺』だった映画と、クライマックスの舞台(科学技術館屋上)をまったく同じくする。いくつもの伏線を考慮すると、オマージュなどというあっさりした言葉では語りきれない、一種怨念めいた執着か、憧憬を追い求める亢奮を感じる。あの強烈な熱線でできた影と言った方がいいかもしれない。それは同時に心底熱狂した同世代ファンへのサービスであり、菅原ヴンダーへの追悼であり、監督ゴジへのプラトニックラブ(プルトニウムラブ)であり、存亡の縁を歩いてきた列島民族に希望をもたらす咒文であるかもしれない。
http://d.hatena.ne.jp/BRIDGET/20160806

【考察】『シン・ゴジラ』への影響作品 3

ガバドン・A (ふなっしーに似ている)『ウルトラマン
遡上 ↓ 進化
ゴジラ第四形態
執務 ↑ 制御(巨災対指揮)
矢口蘭堂(よみうりランド) 科学技術館屋上
監視 ↑ 協力
カヨコ・アン・パタースン
(元ネタはTDFワシントン基地のドロシー・アンダーソンか?)『ウルトラセブン』(vsキングジョー)

バスジャック犯山崎留吉 (目が逝っている)『太陽を盗んだ男
訴状 ↓ 進化
9番使徒ジュリー (よみうりランドで皇居の撮影)
逮捕 ↑ 抹殺(飛び降り心中)
菅原ヴンダー 科学技術館屋上
監視 ↓ 誘惑 
池上ゼロ(若者に大人気のアイドルDJ) 毎日新聞社食堂・屋上









【考察】『シン・ゴジラ』への影響作品 4





以下は過去ログよりの転載




第1部『太陽をみるもの』






【問1】「今日はみんなの要望どおりテストだ。」


『2001: 伝説』編
http://www.variety.jp/eiganoron/mirumono1.html


Q:もう一つの伝説的映画

次に列挙した用語は『2001年宇宙の旅』(1968)に出て来たテーマもしくは設定を拾ったものである。ところで、このキーワードが隠喩する状況と良く似た、深い内容の映画が日本でも作られているのであるが、その映画タイトルとは何か?

 

―――― 昇る太陽のオープニング、

月をみるもの、サバンナ、サル・ブタ・ヒョウ、
最強の武器、核ミサイル衛星、権力による噂の否定、
モノリス、HAL9000とIBM、ヘルメットと呼吸音、
通信システムの意図的な故障、
作業ポッドのマニュピレーター、史上初めての叛乱、
アラーム音、暴発・侵入と奇跡の生還、主導権奪還、
モリーユニット抜き取り、スターゲイト、急激な老化、

誕生するスター ――――

 

 

ヒント:
この章のタイトルは、その映画で使用されたセリフ(みたいなもの)から採用している。

2001年宇宙の旅』の流れを組む傑作映画には『エイリアン』(1979)があるが、それと同じ古い年代に日本で公開されているので、邦画ヲタ以外の若い人はギブアップした方がいい。

 

A:
模範解答は来週の『別ヴァラ』にて配信するから、できたものから自分で採点して教壇の上に出しておく事。


 





【2-1】「そらをこ〜えて、ラララ。」


『アニメ大帝』編
http://www.variety.jp/eiganoron/mirumono2-1.html


1979年公開の傑作日本映画

原子力ロボット『鉄腕アトム』で口火を切った巨大なる日本のアニメーション産業。ディズニーもひれ伏す「手塚治虫」ブランドの最新アニメ作品は2001年5月公開の『メトロポリス』である。『タイタニック』の「ジェームズ・キャメロン」も惚れ込んだ、その映像ワールドに海外の興行関係者も熱い注目を送っている。その監督「りんたろう」は『銀河鉄道999』の監督として1979年に名を馳せた。参考までに付け加えると、同じ年には「宮崎駿」の初監督映画『ルパン三世 カリオストロの城』が公開、「富野由悠季」の『機動戦士ガンダム』テレビシリーズも開始されている。

機械人間として永遠の命を得ようと、メーテルと共に遠い星アンドロメダへ旅立った星野鉄郎は、目的の地で意外な真実に直面する…。『銀河鉄道999』は宇宙を舞台に壮大なファンタジーを完成させ、多くの世代を巻き込み1979年の邦画配収No.1を記録した。その設定に貢献した原作の「松本零士」は、『宇宙戦艦ヤマト』の原作者でもある。ところで『宇宙戦艦ヤマト』の最初のTV放映時、同じ曜日のゴールデンで『猿の軍団』という『猿の惑星』(1968)のパクリ番組をやっていた。『猿の軍団』は人間の味方がゴリラで、人間を襲う軍団はチンパンジーだった。映画とは逆だから許そう。

かなり古い時代までさかのぼってしまったが、『宇宙戦艦ヤマト』と『猿の軍団』のTV放映は1974年だった、『猿の惑星』が公開された1968年からこの時点で実に7年も経っており、クオリティーの低い続シリーズの歴史もそれぞれに堆積している。さらに今夏「ティム・バートン」の手による、仕切り直しの正統な後継作が公開される(2001年当時)。1968年といえば『2001年宇宙の旅』が公開された年でもある、こちらも今年リバイバル版が公開されて、単館系としてはまずまずの動員を記録した。ちなみに本格的な猿メイクをあみ出したのは『2001年宇宙の旅』が先だったが、その技術を盗んだ『猿の惑星』の方が、メイクアップ部門でその年のアカデミー賞をせしめた。

 

― さて、フェイントはこれくらいにして先週のテストを思い出してください。世紀の映画『2001年宇宙の旅』と、はからずも相似関係になってしまっている「日本映画」とはなんでしょう?
 では、これから模範解答を教えますから自己の答案と比べてください。解説はこの後延々続きます。―

A:

スペースものをイメージして『銀河鉄道999』だと思った人は、惜しいが期待した解答とは違う。主題歌でもミリオンヒットも飛ばした『銀河鉄道999』であるが、まだメジャーでなかった「ゴダイゴ」を、スタジオ代レベルのローバジェットで映画に起用したのは「りんたろう」より「長谷川和彦」が先だった。と言いながら解答を急ぐ。『銀河鉄道999』→「ゴダイゴ」(主題歌つながり)→『青春の殺人者』(手塚治虫といえばアニメしかないように思うかもしれないが、一部実写も絡んだ『バンパイヤ』(1968)というテレビ作品もあった。これには『青春の殺人者』(1977)主演の「水谷豊」が狼男として出演している)→「長谷川和彦」(監督つながり)→『太陽を盗んだ男』←「新宿高層ビル」(モノリスつながり)←『2001年宇宙の旅』が正解のつもりです。









【2-2】「ご説明願いましょうか。」


『邦画エクリプス』編
http://www.variety.jp/eiganoron/mirumono2-2.html


『2001年』の太陽が昇る

漆黒の闇の中から、隕石と地殻の変動によって荒れた肌をさらす月面が浮かび上がり、地平からは眩しい恒星に照らされた三日月型の青い星が垂直に上昇している、映画『2001年宇宙の旅』の物語りはその天体を俯瞰するところから始まった。そして、太陽を中心に46億回ほど廻った頃、何かの気紛れで人類という生命が誕生した惑星を、我々は愛着を持って地球と呼んでいる。その文明圏に生息する時の支配者によって今年は『2001年』ということに決められているらしい(2001年現在)。関連は定かではないが、同じように天体のクローズアップと太陽光をバックにメインタイトルが現れる映画がある、『太陽を盗んだ男』である。

全世代的認知率では敵無しの『2001年宇宙の旅』と、邦画マニアと中年映画ファンに片寄って中途半端な人気を博している『太陽を盗んだ男』。新進気鋭の若い才能が集まり、保守的な資本家達とギリギリの対立をしながら、現代にも通じる映像文化を切り拓いた。しかし、年代的に見れば古典とは言わないまでも、どちらも近年製作されたフィルムではない。知らない人もいると思うので、印象的なシーンをたよりに、だれにも分かり易く強引にジャンル分けすれば、方や「映画史を塗り変えた壮大な宇宙冒険スペクタクル」、もう一方は「学園犯罪ラブアクション」、なんてことになるだろうか(ウソだが)。

Newsweek」の表紙や「NHKスペシャル」なんかに登場する『2001年宇宙の旅』は、ちゃんと見たことないけど「知らなくてはマズイぞ」程度には有名な偉大作、たぶん中身も「すばらしいのだろう」映画、一般論として。だけど「『太陽をなんとか』なんて知らねーぞ」と言い切っても、絶対恥ずかしくないような“小名作”もあるにはあって、「それも日本のじゃねーか、だったら知らなくていいよ」、とか言われても「そうだよね」って今まで言ってきた映画、方法論として。邦画というだけで「日を同じくして論ずる」ことができないようになったのはいつからか。現実に総興行収入における邦画の割合は年々減り続け、アニメを除いたらくっきりとした洋高邦低のグラフが出来上がっている。

ボックスオフィスに貢献する20代前後の劇場ユーザーにとって、各映画の持っているネームバリューというのはかなり重要である。新しい知識に過敏な反応を示す彼らは、メディアでの取りあげ方を無意識に計算しながら、友だちとの話題に登場させる映画作品を選択する。そして、だれも知らないような古い和モノを形容したい場合は細心の注意を払わなければならない、周りからひとり浮いてしまうことだけは絶対に避けなければならないからだ。よって、情報を小出ししながら相手との距離をはかり、少しでもけげんな表情を見せたらすぐに新作映画の話題に切り替える必要がある、それもバンバンCM打っているヤツに。

渋谷スペイン坂や恵比寿ガーデンの若人に「ヤベェ、こいつ語りに入っているよ」と引かれ易いのは邦画ネタで、それもテレビ局タイアップのないもの、20年以上も前の作品で、当時のアイドルなんか出ていた日にはウザがられること間違いなしである。どうしても気に入った映画があって、それを人に紹介したいのなら、世相論など難しいことは抜きにして、世俗レベルのネタを若干からめつつ、勘違いで回りくどい私的感想文ではなく、微妙に新奇なニュアンスを含んだ感覚用語に置き換えて発声する、というのが正しい共感の得方である。だって「東大安田講堂攻防戦」や「あさま山荘人質奪還戦」を裏返しになぞった個所の話をしようにも、人生の半分以上が平成という世代には容易に受け入れられる訳がない。それにみんな忙しいのであるから、ヘヴィーでいつまで経っても終わらないような解説論調だと嫌われるのだ。

見かけの動き、実際の動き

映画宣伝業界なんてものは(いきなり「なんてものは」だよ)、例えばDVDのカタログ誌なんかを編集しているお姉さん(オッサンでもいい)が、「毎月原稿の締切りに追われ、しょうがないから送られてくるサンプルビデオを早送りで見て、ちょこちょこっとコメント(レビューとは言うな)を書いて」とか、流れ作業で無造作にやってるわけだから、新世紀を迎えた『2001年』系と沈みっぱなしの『太陽』系、いくら“天体”にまつわる単語が共通してタイトルに用いられていることに気付いたとしても、この邦洋“系違い”2作を「二つ並べて同時に論じて」なんてことはまず、「月と地球と太陽が同一線上に並ぶ」くらいには起こり得ない特異事象ではある。それをまあ、あたかも重大テーマであるがのごとく企画的にこじつけるにしても、労力の割にあまり意味はないってか。

逆に似てないところで言えば、「岩と氷でできた外惑星のように不毛な映画批評老クラブを抱える日の本で、『太陽をなんとか』が恒常的に日の目を見ようはずがなく、当然まともに論じた文献は数えるほどしかなく、「月に星条旗を立てた国」で「サル」と「ハル」の訳の分からない抽象美術が、天文学的に膨大な量の賞賛と賛美に支えられている恵まれた情勢とはえらい開きがある」、ってことを強調しなければならない。

次から次に試写を見まくってる宣伝部お抱え評論家のおかげで、『太陽』はそこにあるのに不思議に暗いという「日食状態」が現出してしまっている日出る国の映画界、太陽の力を借りなければ輝けないやつらが必要以上に出しゃばって影を落としている。じゃあ、と言ってもカテゴライズしてもらわなければ作文も始められない評論放棄の凡庸ライターに何を期待するか。誰かに“星の数”を決めてもらわなければ、見たい映画ひとつ選択できなくなった地軸の定まらない観衆は、何をたよりに軌道を修復するべきなのか。

案外容易につかってしまう「語り尽くせない」というベタな表現がある、しかし「尽くせない」と感じる程内容の濃い映画に出逢ったとして、その言葉を使う彼らは本当にそれを追究し「尽くしてみた」ことが一度でもあるのか。意地悪な見方だが、まあ大半の人はそうではないだろう、一晩程度で語れそうだった映画が実は幾重にも層をなした複雑な天体見本だったことに気付くかもしれないのに。

私は、ただ単にどこどこの演出作法がちょっと似ているな、などというレベルで誇らしげに映画論している訳ではない。見かけの上では絶対的差違のある、むしろ似つかわしくない、『2001年宇宙の旅』と『太陽を盗んだ男』が、観念的にはニアイコールで直列する事実に呆気に取られているのだ。飄々と対流する大気と堅い地殻の下、熱いマントルよりもさらに深く沈んだ“ヘヴィーな核”にその驚異の共通項はある。両者はもう一つの意味の「核、を媒介物として“超人”が誕生する」という基本理念を、まったく別の宇宙で融合し光を届けてくれている。











【3枚目】「何がしたいんだ、おまえは。」


『交わり』編
http://www.variety.jp/eiganoron/mirumono3.html


いつの間にやら21世紀

2001年宇宙の旅』が分かりにくいとされるひとつの理由に、最初に登場する猿人達の解釈をどのようにすればよいのか理解できない、というものがある。「ある猿人の群れが突如猛獣に襲われたり、水のみ場が他の群れとの抗争の種となったり、餓えと闘いながら眠れぬ夜を過ごしたり」といったシーンが何の説明もなく延々と続くだけで、はっきりいっておもしろくない。パンナムのスペースシップを見ようと思っていた人はDVD、あるいはビデオの中身が間違ってるんじゃないかと不安に思うことだろう。

もっとも最初はナレーションが付いていたのだが、公開前に監督のキューブリックがカットしてしまっていたのだった。解る人だけに解ればいいとする、その潔さは結果的に認められることになったが、今あらためて21世紀の映像世代が見たとしてもやっぱり真意を伝えるのは難しいだろう。より正確に理解したい人は、浜ちゃん御用達のハヤカワ文庫版を読んでもらう事にして、その部分をざっと解説するとこういうことになる。

――人類起源のアメリカのジョージア。じゃなかった、アフリカのサバンナ。あの猿人グループの中に『月をみるもの』という名前をつけられた男がいた。いや、オスだったかもしれないが少なくともジョンやジロウやというイメージではない、そいつは所詮ただのヒトザルだ。だが彼が画期的だったのは、ふと、動物の死骸の周りに転がっている骨を拾い上げ、別の骨を叩いてみせたことにある。すると叩かれた骨は砕かれ、別の骨は反作用で宙を舞った、それがとんでもない発見であることに気付くのに時間はいらなかった。

ある日彼は、骨のこん棒でイボイノシシをしとめることに成功し、堅くてやぶれなかった皮を剥ぎ、その肉を食べることを知った。不幸にもそれまで猿人達と一緒に、雑草をはみ仲良く暮らしていたイボイノシシは、それからずっと食用の家畜としての運命をたどる。餓えとの闘いに終止符が打たれた後、さらに革命的な事態が勃発する。水飲み場の支配権を争っていた猿人グループ(他の群れ)が再び現れると、『骨の武器』を手にした『月をみるもの』は勇敢な敵の頭目を一撃のもとに叩きのめすことができた。もはや安眠を妨害する猛獣の豹さえ敵でなくなった『月をみるもの』に恐れるものはない。――

「世界はいまや彼の意のままだが、さて何をするかとなると、決心がつかないのだった。だが、そのうち思いつくだろう。」(小説版/伊藤典夫訳)

『月をみるもの』が武器を手にする直接の動機は彼自身の中にはなかった、ただ、かたわらに出現した「無言の黒い岩」が何かをさせたのではないか、というのは映画が進行するにしたがって分かってくる。その人工的に見えるいわくつきの直方体を『モノリス』と呼ぶ。新宿副都心にある「新宿モノリス」もおそらく、その形やイメージから来ているネーミングであろう。『太陽を盗んだ男』で三枚目づらを晒した『沢田研二』(主役)がラッシュに押しつぶされながら通う京王線は、そのビルの直下を通って新宿ターミナルに到達する。








【4-1 】「エネルギーとは何ぞや。」


『力の伝達』前編
http://www.variety.jp/eiganoron/mirumono4-1.html


日本を盗んだキッド


「エネルギーとは力である、力はどのように伝達するか?」。時おり原人の様な奇声を発し、校庭を囲む規制のフェンス(バックネット)に飛びかかる純粋野生の教諭が主人公。理科を教えるユル系な青年「キド マコト」(城戸 誠)の、出だしのセリフが印象的な希世の痛快大作『太陽を盗んだ男』は、世界を構成する「“力”の関係性」を『2001年宇宙の旅』とほぼ同尺の2時間30分の中に押し込めた。

この映画は、公開終了と同時に忘れ去られる凡百の映画と違い、22年以上経た今でも映画好きたちの話題に上り続ける極めて貴重な日本映画である。しかし、『七人の侍』や『仁義なき戦い』『戦場のメリークリスマス』『南極物語』などと比較して、一般的知名度は必ずしも高くなく、誰との会話にも通用するかと言えば、それは映画ファンに限ってみても若干難しい。現にこの作品を見ている人の絶対数が限られる、若い人ではその監督の名前すら知らない。

『別ヴァラ』では、そもそもタイトルさえも知らない人が多数いる中で、ロードショーでもない色褪せぎみの映画の解説を、それも毎週やろうとしている。「うちわの自己満足じゃ読者が減るな」と思いつつ、差し迫った話どうアプローチするのか、あるいは解説して意味があるのか、という疑問を強制廃棄しながらこの連載はスタートした。

他の映画系ネット媒体が早くも夏の5大作の話題で盛り上がる中、客観的に見てかなり独断的でリスキーな展開である。だが、強引に口を開いて押し入れられるGRP(スポットの総視聴率)にもの言わせた宣伝や、未消化なまま伝えられる作品解説にうんざりすることで、観客の足が劇場から遠退いている今、その現象を忸怩たる思いで見ている関係者の一人として、その流れに抵抗してみたい気分にかられるのである。じっくり腰を据えた話題作りで、より多くの人の関心を呼びおこし劇場動員数の低下に歯止めをかける方が、送り手と受け手の関係性を論じる上では理想的であり、手をつけるにはもはや遅すぎる既成課題なのである。

こと邦画に限っては、突出した一部のムーブメントを除きその課題が少しも達成していない。逆立ちしたって日本人が作ることのできる映画は邦画しかあり得ないのに、その可能性をマスコミに寄生している編集者達が積極的に狭めているとみなされている。幸いにして、このメールマガジンには視聴率データも返本率も無関係であり、そういった規整や圧力からは比較的自由でいられる。購読者の伸び率が鈍化する事実はシリアスだが、クオリティー面での支持がなければここまで思い切ったソリューションは選択しなかったであろう。

意外な反響

この企画、実は2000年末に企画した『2001年宇宙の旅』の新世紀便乗特集とリンクしている。ベタだし話題追随的だが、やや方向が変わる事情がそれに附随して浮上してきた。くわしく言うと、同時期に都内で『太陽を盗んだ男』の上映イベントがあったのだが、それを機会にこの映画を冗談混じりに少しだけ取り上げたところ意外にも多くの人から、特集して欲しいとのリクエストをいただけたのである。

希代の映画『2001年宇宙の旅』のように、世代文化を超えてディープに語られる映画が日本にもあっていいと考えていた時だったので、件の映画が実際そうなのではないかということを受動的に認識できたのだった(全くの偶然! おそるべし電子網)。すごいのは自分と同じ妄想を先に実行している人がいるって分かったこと、読者の中に『太陽を盗んだ男』のファンがいるかどうかなんて想像する前に否定していたのだから。

ゴジラ』『ガンダム』『エヴァ』のような「暗いジャンルもの」では一部の読者から敬遠されかねないが、この映画は多くの要素を放り込んだ「明るいメガエンターテイメント」であるので、興味の公約数はさして小さくないはずである。ストーリー解説に終始しなければ連載も可能なのではないかと考え、その手法として、より身近な誰でも知っている映画と重ね合わせながら検証することにした。この試みの原点は、映像文化を文章を用いて語ることの難しさにあり、それを痛感させられたのが『2001年宇宙の旅』であった。

業界噂の註: “日本を盗んだキッド ”

原案(脚本)のレナード・シュレーダーが最初に付けたタイトルは『THE KID WHO ROBBED JAPAN』だったが、“KID”に対応する適当な訳語が見つからなかったので、当初シナリオには直訳ではなく『日本 対 俺』(『ニホン対オレ』)の表題が付けられていた。発想の原点でもあるキッドは残らなかったが、子供のように純粋で大胆なキャラクター観は主人公の名前、キドとして命脈を保っている。








【4-2】「あっ、だめだこりゃ、手を貸せ。」


『力の伝達』後編
http://www.variety.jp/eiganoron/mirumono4-2.html


カクとは何ぞや

おもしろいものを“オモシロイ”という言葉(テキスト)でしか表現できないみじめさを、ふと感じてしまった人はいないだろうか。掲示板に何かを書き始めようとして、ちょっと工夫を凝らして目を引こうと思いついてみるが、絵文字・当て文字の組み合わせやくだけた表現もほぼ限界、すでに目新しさがないばかりか、ひょっとすると「過ぎ」ている。語りたいのは映像の中身なのか、それともいち早く新作を見たという自慢なのか、一方通行な言葉の羅列には誰も反応しない。

さらに、無理矢理言葉をひねり出して「書く」ことにこだわり過ぎると、文章が埋没してつまらない方向にメルトダウンする。掘り下げるのは勝手だが、客観視しながらフリースタイルで感覚や感情や何かを伝えるには意外に体力が必要なのだ、そのためには脳髄にもアドレナリンを注入しなければならない。だったら「創造力」を刺激するいい映画を見まくるしかないだろう、けっして最新作だけにこだわることはないのだ。

映画とはエネルギーであり「持久力」である、いくつもの映画のDNAでコーティングされた、その“力”を借りることができればイメージのK点突破も不可能ではない。タンパク質の固まりである『2001年宇宙の旅』を見た多くの人間が、未知のら旋の分解にチャレンジし、熱狂的な支持者は人より回数多く咀嚼することで、よりそのメッセージについての理解を深めた。啓発されたあるものは映像での表現を試み、そのスペシャルハイなインフルーエンスは、世界中に伝播して映画の底辺がヴァクハツ的に広がった。

『月をみるもの』のDNAはどのように伝達するか

右脳の弱い映画評論家の領域を離れ、ニューアカデミックな学術的素材になるにまで及んだ『2001年宇宙の旅』では、人類(類人猿)が初めて他の動物の支配権を獲得し、微減微増をくり返していた固体数が、とどまることを知らない「人口爆発のフェイズ」に突入する瞬間を、それがどうしたというくらい退屈なヒトザルの描写に、物々しい音楽をかぶせることで表現して見せた。

人類の到達点としての、華々しい未来社会の映像が見られるのはそれに続く第2幕である。その間に挿まれた“有名なシーン”の主人公は、猿人が原人に昇格するその第一号『月をみるもの』である。場面は、「彼が手にした人類史上初めての武器“骨のこん棒”が中空に放り投げられ、バニラスカイをバックにしたそれが上死点を超えると軌道上に浮かぶ未来兵器にすり変わる」という個所で、これは映画のテーマを表現する最も重要なパートとなっていた。

この切り替えは、特撮を誇示した演出手法として見ることもできるが、あえて現代人の知り得る歴史をすべてスッ飛ばすことで、思いがけない辛辣な効果を生んでいる。我々が抱える小さな悩みはもちろん、現代に至るあらゆる発明、発見、事件、戦争、革命、凶悪テロも、次に登場する「核衛星」に比べれば取るに足らない事象に過ぎず、“力”がどのように伝達されたかを説明するのに、いちいち細かい歴史の経過描写は不要であったのだ。

1つのエポックであった「骨のこん棒」が、地上の主要都市に狙いを定めるミサイル台場に変身する。せわしない現代人の矮小な夢や、抜き差しならない絶望を、物理教室にある“振り子の玉突き”のごとくはしょらせて……。歴史を築いた何千億人の情念も二千年続く王朝も、その“パワー”の前にひざを屈してひれ伏さざるを得ない。それこそGODであり、あらゆる強者を無抵抗にさせる究極の実体こそ、「最大のエネルギー、最高の権力」を有しなければならない。

モノリス

太陽を盗んだ男』序盤、原発襲撃のためのトレーニングをする主人公城戸にかぶせて、タイトルの「太陽」が“力”のメタファーであることが証明される。別段目的があった訳ではないが、彼は唐突にも原子力を手に入れようとしていた。そして、「太陽のように強大で美しいこの力」で始まり「原爆は誰にでも作れる。この太陽の力を君たちの手に取り戻した時、君たちの世界は変わる…」で締めくくられる、惚れ惚れする様なナレーションの背景にはなぜか新宿の超高層ビル群が高くそびえている。

最大なる力の所有者は、神にもなれれば悪魔にもなれる。言葉を発しないモノリスのごときスーパー・ビル群は、しばしば登場し『太陽をぬすんだもの』に啓示を与える(ように見える)。列島改造ブームが引き起こした微細権力と腐敗企業の癒着、社会が鉄壁の利権要塞を完成させ、出口のない若者達のエネルギーは内へ向かう。建設ラッシュの高度成長時代に終わりを告げた1970年代最後の年に、高層建築に象徴されるモダニズムは臨界点を迎え、新たな豊熟の種子を宿らせ始めていた。主人公を演じた“スーパー・スター ジュリー”(沢田研二)の唄う歌謡曲、「TOKIO」が大爆発して過去の秩序をなぎ倒し、焼跡スーパー・シティーの『フーセンガム』(バブル)が膨らみ始めるのは、この映画が不発公開された翌年1980年からである。









【5丁目】「スポンサーの特別なご好意。」


『消費行動』編
http://www.variety.jp/eiganoron/mirumono5.html


シンボル

2001年宇宙の旅』には多くの巨大企業が、小道具のデザインや物語りの基本設定などで協力していた。21世紀に最も注目を集めることになる通信の先駆者「ベル」に、アメリカ航空産業の一大ブランドの「パンナム」、世界的ホテルチェーンの「ヒルトン」等がそれである。ただしベルは組織体を変更し、パンナム(パン・アメリカン)は一度倒産したあと商標権を別の航空事業主が引き継いだ。この映画は今でこそ芸術的視点で語られることも多いが、実はアートと対照的に論議されるコマーシャリズム(「商業主義」)とも密接に関係していた。

アクチュアルな世界で言う商材のブランドマーケティングを、結果として映画に反映させて、これほど印象的に行なった例は少ない。ただその当時のニーズ、順番としては映像制作上の必要性がまずあったはずだ。というのも、偉大な空想産物『2001年宇宙の旅』のプリプロ段階に頭を悩ませた問題の1つが、「想定される未来社会の美術デザインをどうするか」というものであったからだ。言葉ではなく、サイレントな映像で語るためにはどうしても説得力のある道具がいるのである。その解決手段として、NASAボーイングクライスラーといった企業、団体に協力をあおぎ、それらが持つ最先端の発想・研究開発テーマを取り入れ、見返りとして画面のあちこちに企業のロゴマークを入れることにしたのである。

『JSA』の「ロッテ」、『ミッション:インポッシブル』の「アップル」、『キャスト・アウェイ』の「FedEX」、『オースティン・パワーズ』の「スターバックス」など、それぞれ資金調達にどのような絡みがあるか不明だが、映画のプロデュースを行なう上での企業タイアップは、それ自体今では珍しいことでなくなっている。企業のマーケット戦略における大衆エンターテイメントへの歩み寄りである。しかし映画主体の主旨を曲げずここまでポップで斬新な絵作りをした、というのはそれまでの映画にはあまりなかったに違いない。さらに言えば、日本コカ・コーラの缶コーヒーCMなど、今では現物流通の世界に『2001年宇宙の旅』文化が普通名詞的に侵食していくという逆流現象まで起こっている。

直訳すると「人気」という意味の言葉になる「ポップ」は、いわゆる高尚お趣味なサロンゲイジュツ(ファインアート)とは対極の概念にある。例えば「アメリカンポップアート」なんかのような使われ方をするが、これは缶ジュースのパッケージからレコードジャケットまで、一見する商業主義的なデザインさえ「広義の芸術」範疇に押し込めようとした。その意味ではクラシカルな芸術概念を覆す一連の大衆運動と捕えることができる。極みは前述『コカ・コーラ』のブランド戦略で、空母や爆撃機を用いず飲料文化をもって汎アメリカ主義を全世界に浸透させてしまっている。

2001年宇宙の旅』の切り取ったらそのまま商品のイメージCMに使えそうな勢いなひも付き映像は、従来のストーリー先行の映画にはまったく不要なカットであるし、洗脳的な商業侵略感を見る人に与えてしまったら映像文化の信頼性すら損なうことになりかねない。だが、この映画においては別段いやらしくもなく、むしろプラスの相乗効果を今でも感じることができる。そこには受けとり手のイメージ醸成を周到に計算した、監督スタンリー・キューブリックの策略をあらためて感じざるを得ない。

IBMとHAL

ところが、その宣伝タイアップの影にちょっとした仕掛けがしてあったとしたらどうなのか。なんの変哲もない映像素材(テクスト)に隠された意味を求める試みはとっくの昔に熱狂的なファンがやっており、何を今さらという感もあるが、『2001年宇宙の旅』攻略の突破口として最低知らなくてはいけないものはこれである。

叛乱の口火を切る無機物「HAL9000コンピューター」の名の由来、悪の使徒「HAL」の文字をアルファベット順にそれぞれ後ろに1つずらすと「IBM」になるという事実。これには映画の美術協力としてハードウェアを提供していたIBMの経営陣が激怒したのも当然であろうが、その隠されたように見えるテーマを見い出して、さらに映画の奥深さにアプローチするのも楽しい。少なくともHALがIBMのひとつ先を行く意味に気付いたからといって、この場合我々のIBMに対するイメージはちっとも損なわれない (キューブリックとクラークは異口同音にIBMを揶揄する意図はないとしている)。

さて、大掛かりで記憶に残るものとしては、日本でも過去に『ゴジラ』(1954)と「森永製菓」が宣伝部マターでタイアップした例がある。服部時計店(現和光)ビルを蹂躙しながら銀座通りをのし歩く巨大ゴジラが、不二越ビル屋上の“森永ミルクキャラメル”のネオン塔を壊さないよう、営業担当者が特撮に立ち会い見守っていたという逸話も、まあ知ってる人は知ってるだろうなというぐらい有名な話である。キューブリックにも影響を与えた東宝空想科学映画の真骨頂、破壊神とも呼ばれるその映画のヒーローは、日本の富と権力のシンボル(森永と天皇を除く)を踏みつぶしたからこそ、戦後の荒廃から抜けきれない鬱屈した大衆の支持を集めたのだった。

おまたせ、次にやっと予定タイトルの『太陽を盗んだ男』の話題が出てくる。その主人公、水爆怪獣ゴジラと逆ルートで銀座5丁目を南下するのが「原爆兄ちゃん」である。彼は“森永ネクター”の後楽園球場、国会議事堂をはじめとして、日本国民が注視する“スーパーメジャー級の劇場”を手玉に取った後、和光ビルを背景にタイムリミットが迫った原爆を持って歩いていく。しかし、口惜しくも肩透かしを味わったその暴力的な結末は、さして話題になることもなく娯楽映画のひとつとして消費された。戦後を完全に払拭した日本人は、もはや権力との闘争よりも個々の「おいしい生活」に向かって邁進していたのだ。放射能火炎の代わりに、口元でガムを破裂させる城戸は生徒達から“フーセンガム”と呼ばれていたが、協賛したのは“お口の恋人ロッテ”ではない。その映画にもっとも協力したと思われる協賛企業は、「被爆都市広島」の復興の象徴『マツダ』であった。

業界噂の註:“森永ネクター

劇中テレビの野球中継で、森永のスポンサー看板が一瞬写り込むが映画の協賛とは無関係(念のため)。映画の論的にこだわるとしたら、冒頭、城戸が街でグレープフルーツを買った時、しゃがんだ際に写る「東京電力」の看板だね。









【6日 】「臨界量の算出がもっとも難しい。」


『原爆』編
http://www.variety.jp/eiganoron/mirumono6.html


原子核の爆発

大戦末期、巨大な造船所がある軍都広島は、連合艦隊を失った日本の最後の息の根を止めるに相応しい格好の攻撃目標であった。そして「1945年8月6日」、ほとんど無防備の超高度からエノラ・ゲイが落とした「リトルボーイ」は広島市上空で炸裂した。この残虐非道な新型爆弾で、11万人以上の人間が瞬時に命を落とし、それを上回る多くの人を後遺症で苦しませた。行政機能を完全に停止したこの地で、県に工場を差し出すなどして、地域の復興に貢献したのが東洋工業株式会社であった。

それから3分の1世紀を経て、手作り原爆職人『太陽を盗んだ男』に登場する小型原爆の美術デザインは、完敗の駄目押しとなった長崎型原爆の原理をほぼ忠実に再現している。金属プルトニウムに爆発的圧力をかけると核分裂が起こることは、理論的に実証されていたが、それを爆薬を用いて均一に実行させる方法が技術的に未解決で、大戦当時その開発は難航を極めていた。ドリームワークス第1回作品『ピースメーカー』(1997)で、核対策チームの主人公がテロリストの仕掛けた時限式核爆弾を解体しようとするが間に合わず、窮余の策として核周辺の起爆剤のみを爆発させて被害を最小限に食い止めたのは、この基本原理の知識があれば当然の対処方であった。

プルトニウムは通常の火薬のように簡単に誘爆する代物ではない、ではどうやって原子核爆発を起こさせるのか? この映画の原爆は、球状パッケージの内周りを粘土状の高性能爆薬(TNT)で敷き詰め、中央のプルトニウムを取り囲むようにして、複数の雷管を放射状に配してある。これを寸分の狂いもなく同時に起爆することで、内側に圧力を集中させる(「爆縮」)。そうしないことには巨大なエネルギーは発生しない、構造は打ち上げ花火と似ているが点火個所が正反対になる。

ちなみに外殻の金属球に小さい穴か、へこみでも付けておけばそこからエネルギーが外に向かって放出されるので核の連鎖、『チェーンリアクション』までは起きることがない。「爆竹を手のひらで爆破しても火傷するだけ、でも握り締めれば手首ごと吹っ飛ぶ」と教えてくれたのは、穴掘り職人『アルマゲドン』(1998)。“ガス抜き効果”は物理学(理科)と文化人類学との両方に応用できる。じゃあ、国家を吹っ飛ばすにはどうすればいい?









RX-7】「理科もあんまり役に立ちませんな。」


『スポーツ根性』編
http://www.variety.jp/eiganoron/mirumono7.html


巨人対ヒロシマ

『日本対俺』、『笑う原爆』と変遷した映画タイトル、永久不滅の人気を誇る広島出身の胎内被爆監督『長谷川和彦』(通称“ゴジ”)が采配する最初の盛り上がり場面。修学旅行(親睦会)を引率するトップアクター城戸の乗ったバスが、怨念を燻らせたままガス抜きできずに、ついには発狂してしまったという臨界老人にジャックされるのだが、そのバスの横腹には「東陽観光」の文字が描かれていた。“東京”と“太陽”を組み合わせてあるのは全くの偶然かも知れないが、奇しくも前出の自動車会社『東洋工業』と同音になっているのが気になる。

抵抗むなしく打席を降ろされる主人公の前で、果敢に犯人と交渉し最後は血の汗しながら凶弾を打ち返したのは“警察エリート”「山下満州男」(菅原文太)であった。平穏な学園を舞台にスポ根ノリで登場した城戸先生であるが、「所詮殺しのプロ達にはかないません」。スポ根と言えば、貧乏からど根性でプロ野球のスター選手に伸し上がったのは「星 飛雄馬」、そう、真っ赤に燃える『巨人の星』である。飛雄馬の放つ魔球“大リーグボール1号”は、引いたバットに当たるからどんな強敵打者もヒットにできなかった。しかし、体をぼろぼろにしながらこの球を強引に打ち返してホームランにしたのは“金持ちエリート”「花形 満」である。「満州男」と「満」、両ライバルに「満たされる」という文字が重なっているが別に深い意味はないだろう。蛇足であるが、この『巨人の星』テレビ放送時のスポンサーは大塚製薬の「オロナミンC」であった。

花形は自動車会社社長の御曹子だから、中学生なのにスポーツカーを乗り回していた。という話しは置いておき、広島の星「東洋工業」に話しを戻す。この会社の当時の主力商品は劇中のCMに登場する「ファミリア」である。原爆を製造している「満たされない男」のアパートで、たまたま放送されているTVのプロ野球中継が、局の編成都合上定められた時間が来ると、当然のように終了してしまうのだが、その後流れるノー天気なクルマのコマーシャルが「ファミリア」のものだった。あからさまにブランドネームがアップになるあたりは、協賛社に対する配慮を感じとれるが、なぜ「MAZDA」なのかは「IBM」同様うがった見方をしなければ分からない。ちなみにそのナイターの対戦カードは「東京読売ジャイアンツ」対「広島東洋カープ」である。

東洋工業株式会社は後の1984年、社名を『マツダ株式会社』に改めるが、その名の由来は人類文明発祥とともに誕生した神『Ahura Mazda』にある。『“GOD”ZILLA』が「GOJIRA」でないように、『MAZDA』が「MATSUDA」でなかったのは、重大な破壊局面に現れた“祭神”を具象していたからだ。灼熱のサバンナでは原始兵器とともに人類が創世し、進化した兵器によって焦土と化した広島から、ロータリーエンジンで世界に名を轟かせる花形メーカーが成長していった。ところで、映画後半には小学生に大ブームを巻き起こしていた“スーパー・カー”ルックの『サバンナRX-7』が活躍する、流行を追いかけていたのは分かるにしても、背景まで考えると出来過ぎた偶然に少し驚く。

人類創世潭といえば『2001年宇宙の旅』を思い出すが、第1幕アフリカのサバンナの役者は、神のごとき役割りを果たすスーパー・オブジェクト「モノリス」、そして「ヒトザル」、「イボイノシシ」と「ヒョウ」であった。それらは進化をくり返し現在どうなったのか。協賛車両の『マツダ サバンナ』を、文字どおり派手に乗り飛ばすスーパー・マン城戸は終止無感情であるが、少しだけ愛情の片鱗をのぞかせるシーンもある。その対象動物はなんだったのか、答えは次々回ニャロメ。









【8号】「あたしゃ、蚊じゃありませんよ。」


『熱帯時代』巡査編
http://www.variety.jp/eiganoron/mirumono8.html


ニャロメと忠犬八号の受難

ニッポンの夏、金鳥の夏、警官を襲ったモスキートパニック。城戸は催眠ガスを封入したキンチョールを持って派出8号を襲撃する、都政への愚痴をこぼす以上のことは何もできない公僕(水谷豊)から拳銃を強奪するためだ。ところで、『太陽を盗んだ男』の中で彼が最初に殺す生き物は、気まぐれなノラでも忠実なイヌでもどん欲なイボイノシシでもなく、皇居内でブチ切れるキチガイ老人同様、それを殺すことに誰からも疑問を持ってもらえないヤブ蚊であった。そう言えば、オオカミ水谷の『バンパイヤ』が、特撮で話題を集めた1968年には、2001年と同じく『猿の惑星』が公開されている。

当時『2001年宇宙の旅』もまた進化論に挑戦している。その熱帯の「ハグレエイプ」のDNAを隔世遺伝したとでも言える反逆公務員は、国家に飼われ番犬に成り下がったオオカミのほほを平手で叩いて季節外れの繁殖害虫を撃退する。彼の「暑いねぇ、毎日」の言葉でわかるよう、この映画の設定する新緑のハルには早くも猛暑が訪れていたのだ、異常気象により年中夏の暑さが去らない『エヴァンゲリオン』のように。さて、今夏もシリーズ新作がヒットしている『ジュラシック・パーク』(1993)で、恐竜のDNAの運搬に一役買ったのは眠れぬ夜の超軽量制空戦闘機『蚊』であるが、それを迎撃する瀬戸物の“蚊取りぶた”(正式名称調べる気なし)はなぜにブタなのか?







【9番】「9の次は0なんだ。」



『受胎』編
http://www.variety.jp/eiganoron/mirumono9.html


ボクの先生は

島型原爆の原料はウラン235であるが、城戸が作っていた爆縮型原爆の中心原料は長崎型原爆「ファットマン」と同じプルトニウム239であった。実験データの欲しかったアメリカは、「大平洋の覇者」日本の戦意喪失のためというよりも、その効果を確認するためにわざわざ条件を変えて対比テストを行っていたのである。その犠牲者は、『2001年宇宙の旅』で猿人「月をみるもの」が最初に殺した「イボイノシシ」と同類である。彼らの子孫は飼いならされるに従い『ブタ』へと進化した、「生態系の王者」であった猛獣の一部が『ネコ』に姿を変えたように。

いたずらに生身の国民50万を被爆させた戦勝国に、戦後急速にすりよった敗残国の国旗は、「太陽」をかたどった『日の丸』である。原爆を密造するアパートで「マツダファミリア」のCMの次にテレビ画面に映っていたのは、日本放送協会(NHK)の放送時間終了を告げる「日の丸映像」、テーマ音楽はもちろん「君が代」。ナイター中継の巨人vs.広島戦に引き続き、広島の代表的企業「マツダ」のCMを持ってくる見事な当てつけぶりは偶然なのか計算なのか。

原爆を保有していいのは国家のみ。しかし、アメリカに押し付けられた憲法を遵守する付和雷同日本は、善くも悪くも核兵器を持つことができない。そんな中、一見無気力な3年3組の担任教師は原爆の製造に成功し、自らを『キュウバン』と呼び日本政府に脅迫要求をくり返した。アメリカに牙をむいたラテンな国民「CUBAN」(キューバ人)、野球ではレフト(左翼)を意味する「9番」、いやそうではない「9番目の核保有国」という意味である。したがって軍事力では日本に優越するのだ、とその名前で宣言しているのである。 『2001年宇宙の旅』において、人類に最初の叛乱を試みたコンピューターは「HAL9000/ハル キュウセン」、この映画では「9番」という名の個人が国家に最大級の叛乱を引き起こそうとしていた。

ナインマンス

ひと桁の数字では最大の「9」の次は「0」しかない、この映画が製作公開されたのは1979年、行き場を失う程爛熟した生活文化が出口をもとめて迷走し始めていた70年代ラストイヤー。戦争の記憶を引きずる者は隅に追いやられ、新しいが不安定な時代を反映する気分が、この映画に挿入される風俗現象にも現われている。高度経済成長がとっくに終わりを告げ、大時代的目標を喪失したサラリーマンの自殺が急増し、安定を子供に託した結果としての受験競争が社会問題化するなど、人々の関心はミクロな領域に吸引されて行く。さらに言えば、オタマジャクシの形をした9という数字には終焉、飽和と共に誕生のイメージがある、意志を持たないただ“生”のみの人間の種が、羊水の中で過ごす期間がおよそ九ヶ月だからだ。さて、その男「9番」は男子性器の暗喩であるピストルを奪い、酸性の「スターゲート」を通り3億分の1の確率で卵子(プルトニウム)を手に入れ、密室の儀式を経たのち臨月を迎える。やがて母親となった「彼女」は、国会議事堂で自分の第一分身を産み落とすことになる。



「長崎」の佐世保で、アメリカ軍空母エンタープライズの寄港阻止闘争を闘った学生(「糸井重里」)は、その後売れっ子商業文案家になり「おいしい生活」(西武)や、「TOKIO」(作詞)や、ほぼインターネット的カルチャーを生んだ。そして、この映画には「ボクの先生は、原爆をもっている。」のキャッチコピーをつけている。「ボクの先生はヒーロー」と言えば、『3年B組金八先生』に引き継がれる先生ブームを巻きおこした水谷豊の『熱中時代』であるが、原爆作りに熱中する悪魔のような先生は、ブタのごとく消費することが美徳だったこの時代の家畜となることを否定し、サムシングエルスを生産しようとしていた。しかし、極大から極小へ収れんされる大カタストロフ後のゼロの地平に、どんな種を蒔こうとしたのか、その先生は簡単には教えてくれない。

左翼運動歴のあるチーフ助監督、後に『セーラー服と機関銃』などのメジャーな映画の監督として知られることになる「相米慎二」の命日は因縁深く9月9日となっている。彼が監督デビューの足掛かりにした『太陽を盗んだ男』がひとり80年安保闘争を演じた9年後、昭和天皇死に至る病に臥せり「お元気ですか」のセフィーロCMが消える。同年、映画『AKIRA』(平成0)の中で東京が核の餌食となり、世田谷の砧南中学校では「村上 龍」の小説『69Sixty Nine』を地で行く「9の字事件」が起こってもいる。ところで、長崎県出身の村上が東京に未曽有の危機を現出させた『愛と幻想のファシズム』の準主役の名前は「相田剣介」、映画製作に失敗した男でニックネームはなぜか『ゼロ』、彼はカリスマとなる主人公のプロパガンダ(宣伝)を引き受けていた。

『ゼーレ』(Seele)が陰で糸を引き、新型爆弾で東京を消滅させた『新世紀エヴァンゲリオン』では“9”体のエヴァが地球をリセットしたが、この作品にも同名の登場人物がいる。14歳の主人公「碇シンジ」のクラスメイト「相田ケンスケ」である。ちなみに『太陽を盗んだ男』DVDのチャプター設定をしたのは特撮監督の「樋口真嗣」、『エヴァンゲリオン』主人公「シンジ」の由来である。

突進する9が精子を意味するなら0はそれを受け入れる卵子、母性、あるいは女性を象徴するのか。正体不明の敵と戦うエヴァ“零”号機のパイロットは「レイ(綾波)」、シンジと同年令のこの少女(14)は母親のクローンだった。一方『太陽を盗んだ男』にヒロインとして登場する『沢井零子』(池上季実子)は、原爆製造中の城戸が好んで聞いていた深夜ラジオのDJである。「プルトニウムを盗んだのは14歳の女の子❤」なんて言ってる第三権力、「マスコミ」の端くれでもある番組、そのタイトルは『ゼロのブタブタジョッキー』、あたまの『ゼロ』は零子のニックネームから来ている。零式艦上戦闘機のことをゼロ戦と呼ぶのと同じ理屈であるのは分かるにしても、なぜに『ブタ』なのか?


つづく
















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戦艦の論 THE SEVEN XI「君のために走る 永遠に 輝くあの星のように」




 

【すべて再掲載】




PROJECT YAMATO 1[天の岩戸穿つ] 




 「銀 河 の 序」 (返歌)


  太陽系外に行脚して、地球近似惑星ビーメラといふ所に泊まる

  亜空間ゲートは海の面十八里、滄波を隔て東西三十五里に、よこおりふしたり



  自由浮遊惑星、みねの嶮難の隈隈まで、

  さすがに手にとるばかり、あざやかに見わたさる



  七色星団はこぶねおほく出て、あまねく我の敵となれば、

  収容所惑星、大罪朝敵のたぐひ、遠流せらるるによりて、

  ただおそろしき名の聞こえあるも、本意なき事におもひて、

  窓押開きて、暫時の旅愁をいたはらんむとするほど、

  大マゼランは日既に海に沈で、月ほのくらく、

  銀河半天にかかりて、星きらきらと冴たるに、

  帝星ガミラス、沖のかたより、波の音しばしばはこびて、

  たましいけづるがごとく、腸ちぎれて、

  そぞろにかなしびきたれば、草の枕も定らず、

  墨の艦、なにゆへとはなくて、しぼるばかりになむ侍る




 あ ら 海 や は る ば る 望 む あ ま て ら す


               沖田 十三 (艦長/フクシマ出身)









PROJECT GUNDAM II [哀 戦士] 




   「平 泉」 (返歌)


 南米の栄耀一睡の中にして、都市の跡は一里こなたに有。
 リオが跡は荒野に成て、コルコバードの丘のみ形を残す。
 先、ファンファンにのぼれば、アマゾン川、南部より流るゝ大河也。
 地下水脈は、我が城をめぐりて、鍾乳洞の下にて大河に落入。


 中央アジアマ・クベが旧跡は、ウクライナオデッサを隔て、
 南部口をさし堅め、木馬をふせぐとみえたり。
 さても義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢となる。
 「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、
 兜打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。




  馬 散 舵 や 兵 ど む が 夢 の 痕


               ウッディ (大尉/ジャブロー基地所属)




  磁 の 白 に 北 宋 み ゆ る 白 魔 か な 


               キシリア・ザビ (少将/グラナダ基地司令)









PROJECT EVANGELION使徒、襲来] 




  「立 石 寺」 (返歌)


 箱根仙石原に第三新東京という都市あり。
 特務機関NERVの開基にして、日本政府本拠の地也。


 一見すべきよし、人々のすゝむるに依て、
 二子山よりとつて返し、其間七里ばかり也。日いまだ暮ず。
 麓の坊に宿かり置て、山上のモノレールにのぼる。


 対空砲火塔、大口径自動砲塔を重て、使徒迎撃のための要塞とし、
 誘導弾、汎用人型決戦兵器の射出口扉を閉て、物の音きこえず。
 岸をめぐり、岩を這て、兵装ビルを拝し、
 佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ。





  芦 ノ 湖 や 嵐 の 前 の せ み の 声


               相田ケンスケ (2年A組/第3新東京市立第壱中学校)










PROJECT ULTRA SEVEN [明けの明星] 




  「大 垣」 (返歌)

 マグマライザー、地底みなとまで出むかひて、ゴース星人の国を滅ぼす。
 ダンにたすけられて、彼の地よりいずれば、ソガも本城よりかけ合ひ
 キリヤマ、クラタもウルトラホークをとばせて、星人が双頭怪獣を討ち果たす。

 アンヌ、フルハシ、其外したしき人々、夜明けにとぶらひて
 ふたたび蘇生のものにあふがごとく、且よろこび、且いたわる。

 いくさの物憂さも、いまだやまざるに、神無月になれば
 TDFの復興おがまんと、又ポインターに乗りて、




  も ろ 星 の ふ た み に わ か れ 行 く 明 け ぞ


               アマギ (隊員/ウルトラ警備隊)















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戦艦の論 THE SEVEN X 「ゴジラ凍結作戦というのも子供っぽいですから。」






シン・ゴジラ』について、ほんの一言。





【ネタバレ注意】(わかる人だけ)





石原さとみ」が、「沢井零子」にしか見えないのは、わざとだろ。






〜 2012-10-01 の投稿「0(LOVE)と幻想のシンクロニズム 2」を振り返って〜
http://d.hatena.ne.jp/BRIDGET/20121001



このブログ、当初は今と異なり添えられるコメントは独りよがりなメモ書きに過ぎなかった。やがて、ヤマト、ガンダムエヴァのシンクロの源流をたどる試みに論が膨らみ、調子が変わっていったので、下述のように章を区切ることにした。その最初に書き散らした文章のまとめが今回である。300年後の歴史教科書では、こんな感じで図表が作られていると楽しい。



見直して、教科書として偏っているのは、やはり「鉄腕アトム」が入っていないことか。いずれ説明するが、決定的な影響に気づいていなかった。そもそも主観に基づいているので、それ以外にも欠けている部分は多い。左翼から追いやられた古代神話の歴史観は完璧に入っていない。



アニメ「宇宙戦艦ヤマト」のルーツと言えば、それは日本帝国海軍が誇る戦艦の名前だ。さらに言えば、よちよち歩きの集合体が、同時に二つの超先進文明に遭遇するヤマト政権か、後の行政区域としての大和国だ。ところで『ヤマト2199』では「イズモ計画」という、旧作にはない王権時代のヤマト対義語がでてきて、登場メカやキャラクターがなぞらえていた時代設定が、一段と遡ることになる。新作を見るより、歴史背景の学習に時間がかかって論が進まなくなったのはこの頃だ。



【考察】 『シン・ゴジラ』への影響作品 1



さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』に登場して、プラモ少年を夢中にさせた「宇宙戦艦アンドロメダ」は、アンドロメダ銀河がその由来だ。規模感で言ったら古代大和国の「戦艦ヤマト」では到底太刀打ちできない。しかし、それすら元は神話の女神名から来ている。この名のつけられた神話型(アンドロメダ型神話)と同じ日本の神話「ヤマタノオロチ伝説」は、古墳時代弥生時代の出雲の怪物退治がルーツだ。



シン・ゴジラ』最大の見せ場となった、科学技術の集大成である「新幹線爆弾」からの「ヤシオリ作戦」は、ヤマタノオロチを眠らせた酒の名、「八塩折の酒」に由来していた。「その意味は?」のセリフを挟むことなく、武官がすぐに了解する設定となっているのがオツだ。神話時代の日本史を知らなくてもいい民進党政権下ならこうはいかなかったはず。「ヤシマ作戦」同様、土俗的呪いへ通じる保守反動ネーミングである。





庵野・樋口の融合反応
〜 本当はゴジラではなく『シン・キドマコト』を撮りたかったのではないか 〜


架空の未来教科書に入れておいたのは正解だと自負するタイトルが、現代日本原発問題を先取りしていた『太陽を盗んだ男』である。エヴァ・テレビシリーズの折から、ほのぼのとした学園シーンとの挟み打ちで、その暴力性をちらちら垣間見せるという共通点を感じていたが、ここまではっきりした類似パターンを確認したのは、ヱヴァ・破の「YAMASHITAのテーマ」以来である。




この選曲がすごい(著作権の壁はもっと厚いと思っていたので、劇場の中で聞いた当時は耳を疑い、感動を通り越して腰が抜けた)



この夏、話題となった『ニッポン 対 ゴジラ』は、原題が『日本 対 俺』だった映画と、クライマックスの舞台(科学技術館屋上)をまったく同じくする。いくつもの伏線を考慮すると、オマージュなどというあっさりした言葉では語りきれない、一種怨念めいた執着か、憧憬を追い求める亢奮を感じる。あの強烈な熱線でできた影と言った方がいいかもしれない。それは同時に心底熱狂した同世代ファンへのサービスであり、菅原ヴンダーへの追悼であり、監督ゴジへのプラトニックラブ(プルトニウムラブ)であり、存亡の縁を歩いてきた列島民族に希望をもたらす咒文であるかもしれない。








【抜粋再録】シンクロニズム 戦艦の論 セカンドシーズン 1


日本史 近世若者文化の流行
〜ヤマト、ガンダムエヴァなど〜 

20世紀末から21世紀初頭にかけて極東で繁栄し、先進・後進諸国の民衆にインパクトを与えた映像文化(当時はサブカルチャーと呼称)について、チャートを用いて表現いたします。



第一幕 シンクロ大戦、結の論 ( 1 )


1945『大和轟沈』(敗戦後遺症)

  反映 ↓ 

1954『ゴジラ』(首都防衛)

  継承 ↓ 

1967『ウルトラセブン』(地球防衛)

  影響 ↓ 

1974『宇宙戦艦ヤマト』(地球復元)

  発展 ↓ 

1979『機動戦士ガンダム』(戦争する少年)

  敬意 ↓ 

1995『新世紀エヴァンゲリオン』(新首都絶対防衛)

  調合 ↓ 

2012『宇宙戦艦ヤマト2199』(極大反攻)



第一幕 シンクロ大戦、結の論 ( 2 )


1975『悪魔のようなあいつ』 ← カウントダウン  『宇宙戦艦ヤマト』1974

 プロット流用(または逆流)
  ↓ 

2005『プリズンブレイク』 ← butterfly effect  『機動戦士ガンダム』1979



1979『太陽を盗んだ男』 ← 共振 → 『機動戦士ガンダム』1979

 コンテ流用(または逆流)
  ↓ 

1991『ターミネーター2』 ← effective control  『機動戦士ガンダム』1979



第一幕 シンクロ大戦、結の論 ( 3 )


1977『宇宙戦艦ヤマト(劇場版)』→ 最終決戦 →『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』1978

 社会現象(想定外)
  ↓ 

1981春『機動戦士ガンダム(劇場版)』→ 商売継続 →『機動戦士ガンダムII 哀・戦士編』1981夏

 社会現象(想定内)
  ↓ 

1995春『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』→ 趣味延長 →『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』1995夏





第一幕 シンクロ大戦、結の論 ( 4 )



1954『ゴジラ』(シリーズ破綻)→ 移植手術『平成ガメラ三部作』1995〜


1966『ウルトラマン』(突貫工事)→ 大規模改修『ウルトラセブン』1967


1974『宇宙戦艦ヤマト』(シリーズ破綻)→ 整合『宇宙戦艦ヤマト2199』2012


1979『機動戦士ガンダム』(シリーズ破綻)→ 整合『ガンダムTHE ORIGIN』2001


1995『新世紀エヴァンゲリオン』(突貫工事)→ 大規模改修『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』2007




以上、再録おわり






第七幕 戦艦の論 (10)



【考察】『シン・ゴジラ』への影響作品 2



防衛隊 vs「ゴジラ」 → 科特隊 vs「ゼットン」 → 地球防衛軍 vs「キングジョー」 → 戦略自衛隊 vs「使徒



1954『ゴジラ』→ (神化) → 2007『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』(偽装)→ 復元 2016『シン・ゴジラ





【考察】『シン・ゴジラ』への影響作品 3



ガバドン・A (ふなっしーに似ている)『ウルトラマン

遡上 ↓ 進化

ゴジラ第四形態

執務 ↑ 制御(巨災対指揮)

矢口蘭堂(よみうりランド) 科学技術館屋上

監視 ↑ 協力

カヨコ・アン・パタースン
(元ネタはTDFワシントン基地のドロシー・アンダーソンか?)『ウルトラセブン』(vsキングジョー)




バスジャック犯山崎留吉 (目が逝っている)『太陽を盗んだ男

訴状 ↓ 進化

9番使徒ジュリー (よみうりランドで皇居の撮影)

逮捕 ↑ 抹殺(飛び降り心中)

菅原ヴンダー 科学技術館屋上

監視 ↓ 誘惑 

池上ゼロ(若者に大人気のアイドルDJ) 毎日新聞社食堂・屋上





















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