戦艦の論 THE SEVEN XV「お前を捕らえるつもりはない、子供がひもじかろうと思うてな。」











【考察】『シン・ゴジラ』への影響作品 9





真・ゴジラ 
ガメラAKIRAターミネータータイタニックジョーズ宇宙戦争




構図の同調で分かる。
タイタニック』は、紛れもない怪獣映画。








【新】「君の見たい(ゴジラ)が見れるよ」0




太陽を盗んだ男エヴァンゲリオン 』 



「権利関係」という最もタンニンなシステム支配下に関わらず、ゴジラの出てこない(ゴジラ)のような作品を果敢に製作してきた先達が、広島と山口にいた。



一作目ゴジラに続く、歴代シリーズにタンニンしていた熱心な初ゴジ信望者は、そんなクリエーターを多いに支持した。そして、そぞろ神が乗り移ったように、「ディレカン」や「Daicon」達が目覚めると、古代の怪獣を一時忘れ、これに心狂わせた。神まねきにあった彼らが尊崇したのは、東京で原爆を炸裂させた『太陽を盗んだ男』と、東京を海中に沈めた『エヴァンゲリオン』である。



さる関係者には誠に遺憾ながら、両者こそ豊葦原千五百秋瑞穂国の頂点に君臨する、真の呉爾羅であった。結果的に、ファン希求のゴジラ待望熱は、それら「ゴジラの出てこない(ゴジラ)」によっても解消された。



かつて、70年代末に製作された『 菅原ヴンダー 対 ジュリー 』は、見てくれこそメインキャラクターが、広島任侠界と東京歌謡界の人気を正式契約に基づいて宣伝しているが、その実態はあろうことか「人間ドラマ」ではなく、『ゴ ジ ラ』がまさにそうであったように、たったひとつの生命が巻き起こしたディザスター、突如日本の行政機構が陥るクライシス、そして首都東京がパニックに襲われる「怪獣映画」であった。



ゆえに、宣伝の対象と好むであろうファンが一致しないだけでなく、地方興行主の理解を超えていたため、古い観念の論者が評価に戸惑ったため、支持者が声援を送るというインフラが整っていなかったため、ロードショーが早晩リジェクトされる現象が起こってしまった。そうした意味で、改めて権利元からではなく、残念な成績を見た上でタイトルを付けるならば、この作品名は『大金を盗まれた男』がふさわしい。



 カタストロフの効用



公開当時、動員的には評価されなかったモンスター級アイドル映画の重要な弱点は、皇居で敢行された「ゲリラロケ」に完全凝縮されている。出世作青春の殺人者』では、芸術性についての主張が伝わり過ぎたためか、監督長谷川は次に製作する作品で、思い切り分かりやすく舵を切り直した。その結果、一部から日本のスピルバーグとも評されたが、全役人の敵となるつもりの破壊的ディレクターが、国家に叩きつけた挑戦状をして、「左折禁止違反」程度に扱われた「人質バスの突入シーン」は、期待した意味での理解に届かなかった。



アイロニカルなメッセージとして、十分痛烈だったにも関わらず、ラストにいたるまでがあまりに面白く、その過剰な興奮のせいで、ほとんどの観客は導入部の政治主張を忘れていた。命を投げ捨てることで、出兵子息への愛を成就させたバスジャック犯とて同じことだ、なんともったいないメッセージであることか。



初代ゴジラは国会議事堂までは壊したが、皇居には一歩も立ち入っていない。ゴジラ第四形態は、皇居の玄関口東京駅まではたどり着いたが、そこで身動きできなくなっている。一方、太陽を盗んだジュリーは、国会議事堂も皇居も攻め込んだ上で、丸ごと消滅させている。こんな不敬な作品は後の世にしか作られていない、クールなカルチャーと呼ばれたAKIRAevangelionだ。今から思えば、ヒロイン「ゼロ」をオリンピック建設予定地(台場/爆心)に誘い出したり、14歳の教え子たちを箱根(第3新東京市)に連れてったりしてるのは、恐ろしいほどに予言的だった。



「アキラ」も「エヴァンゲリオン」も、なぜ東京が消滅したのか多くは語らない。だが、世界的にも稀な、バブルに熱狂した異常な精神状態のスーパーシティーは、一度ご破算にすべき空気に支配された。そして土地神話と共に都市経済は崩壊し、名も知れぬ多くの当事者とその家族を苦しめた。このような背景の中で、アキラとエヴァは、漫画とアニメに舞台を変えて、叶わなかった『太陽』の続編作りを、もうひとつのニッポンの姿として見せてくれた。不完全燃焼した太陽の廃棄物を再処理し、発散すべき負のエネルギーを、ゴジラの熱線のように大放出してくれたのだった。



太陽にほえろ! 対 タクシードライバー



ところで、『太陽を盗んだ男』の中核をなしている、プルトニウムを盗んで政府を恐喝するというプロットは、先に東宝テレビ部製作の「太陽にほえろ!」で使用済みである(第77話「五十億円のゲーム」)。屋上から身代金をバラ撒かせるというアイディアも既出(第197話)で、ジュリーがこの刑事ドラマにゲスト出演した回(第20話)は、逃亡に協力する女性が現れるという点で『女心を盗んだ男』と一致する。太陽とともにタイトルバックが登場するオープニング、新宿の高層ビルを背景にポーズを決めるシーン、あの、誰もが知っているトランペットのテーマを演奏する井上堯之バンドの起用、最初(第1話)の事件の当事者が水谷豊、おまけには「危険を盗んだ女」(第51話)という、どこにつっこめばいいのかという姉妹回すらある。



では、首都が攻撃目標とされた際の政府対応を、『シン・ゴジラ』より37年早く浮き彫りにしたゴジ監督の「怪獣映画」は、「太陽にほえろ!」のスピンオフムービーだったかと言えばそうではない。



それっぽいところもあるが、脚本を書いたのは東宝テレビ部ではない。『太陽を盗んだ男』のシナリオ作家は、ロバート・デ・ニーロを一躍有名にした『タクシードライバー』の血筋だ(レナード・シュレーダー。ポール・シュレーダー実弟)。お茶の間か駅前のラーメン屋か銭湯のテレビ受像機に馴染みやすい「太陽にほえろ!」と違って、どこか日本離れしたスタイリッシュなムードを漂わせているのはそのためだ。



 「どこにいても、淋しさがつきまとう」

 「バーや車、歩道やストアやどこでもだ」

 「逃げ道はない、たったひとりだ」



 「6月8日、俺の人生にふたたび転機が現れた」

 「長い鎖のように続く漠然とした日々」

 「それが突然変わった」



 「俺は太陽さ」

 「名前はヘンリー・クリンクル」

 「ホッパー通り 154番」



要人暗殺を目論む、謎めいた一人の『タクシードライバー』と、何が目的かはっきりしないが、とんでもないことをしでかす『太陽を盗んだ男』はよく似ている。都会のありふれた職につき、友達とわいわい騒ぐこともなく、孤独な妄想をめぐらす青年の前に、ある日突然、抜き差しならない暴力が立ちはだかる。



その日を境に、ストイックに体を鍛え、自室にこもって武器を製造する。ぶつぶつ独り言を言っているかと思うと、シークレットサービス(官憲)をおちょくり偽名を名乗る。繁華街のウィンドウ越しに笑顔を振りまくマドンナに、だいたんアプローチしカフェに誘い出す。街の夜闇、フロントガラスに映ったネオンが交錯し走り去る中、ひとり静かに獲物を求める。頭を狙ってエア自殺する。二丁拳銃で弾がなくなるまで撃ちまくる。




 「3年3組担任、城戸誠」

 「なになに、若葉町1の3の27、サトウシゲオさんね」

 「キド、いやキドコロマサオ、よろしく」



 「お礼に俺の名前を教えてあげるよ、俺は9番」

 「現在、核爆弾保有国は八つある、おれはその9番目だよ」



 「いいよ、教えてあげるよ」

 「俺は9番、9の次はゼロなんだ」




地球上のどこかの住所と、本名と肩書きに縛られていれば安心できる我々と、少し異なるアナーキーな生き方を選択した『タクシードライバー』。似ている邦画は『盗んだ男』だけではない。名誉除隊の退役軍人、帰還後の逸脱行動を綴ったこの映画には、『七人の侍』のエッセンスが含まれている。かの主人公たちも主君を失い傷を負い、無秩序な時代をさまよう退役サムライだった。唐突に頭にソリを入れて、か弱い少女を、売春宿のチンピラどもから助け出したデ・ニーロは、たくましい百姓と、勇気ある浪人の両方の血を受け継いでいた。モヒカンにしたのは、過去の自分との断絶を意味していたに違いない。



そもそも、有名な「なんじゃこりゃー」(第111話)を生んだ「七曲署」のメンバー設定からして、『七人の侍』のキャラクターをモチーフにしている(1ボス、2山さん、3ゴリ、4殿下、5長さん、6シンコ、7ジーパン)。赤子を人質にとった凶悪犯が立てこもる小屋の前、大勢が見守る中、武士の尊厳を意味する髷を剃って刀を外し、ひとり前に進み出る志村喬の名シーンは、「太陽にほえろ!」では長さん主役回(第81話)で再現している。刑事が拳銃を手放すことは、命を相手に委ねるに等しい。ジュリーが衝撃を受けた、立てこもり犯とヴンダーの素手での交渉シーンも、「太陽にほえろ!」ではなくレジェンド『七人の侍』をルーツにしているのかもしれない。














【再掲載】「君の見たい(ゴジラ)が見れるよ」1
http://d.hatena.ne.jp/BRIDGET/20141001



『 ゴ ジ ラ 対 ガ メ ラ 』



「権利関係」という最もタンニンなシステム支配下に関わらず、ゴジラの出てこない(ゴジラ)のような作品を果敢に製作してきた先達がいた。


一作目ゴジラに続く、歴代続編シリーズにタンニンしていた熱心な初ゴジ信望者は、そんなクリエーター達を多いに支持した。そして、そぞろ神が乗り移ったように、大覚様が目覚めると、古代の怪獣を一時忘れ、これに心狂わせた。神まねきにあった彼らが尊崇したのは、セントラルドグマより発現した大権現『 ア キ ラ 』と、十字架をタイトルロゴで現出した『 平成 ガ メ ラ 』である。さる関係者には誠に遺憾ながら、両者こそジャパニーズ・バラエティ生態系の頂点に君臨する、真の呉爾羅であった。結果的に、ファン希求のゴジラ待望熱は、それら「ゴジラの出てこない(ゴジラ)」によって解消された。





(おもしろかった頃のフジテレビは『ブジラ』を、auは『デジラ』を、ファイヤーフォックスは『モジラ』、パラマウントは『クローバーフィールド』、サンライズは『耐熱フィールド』、ガイナックスは『ATフィールド』、ガミラスは『ゲシュタムフィールド』、その他 ニャジラ、雀路羅、ゴモラ、ゴドラ、ゴラス、ジラース、ドジラ、松井、グズラ、ガジラ、バジラ、長谷川和彦)




この度、ハリウッドで製作された『 ゴジラ 対 無 糖 』(ワーナー映画)は、見てくれこそメインキャラクターが、怪獣王の形態と咆哮と著作権とを、正式契約に基づいて継承しているが、その実態はあろうことか、人気ファッションブランドの「東宝ゴジラ」ではなく、世間的には下等なレッテルを貼られた「大映ガメラ」であった。ゆえに、名称と中身が一致しないだけでなく、影響が上位に逆流(Strikes Back)し、シンクロがループする現象が起こってしまった。そうした意味で、改めて権利元からではなく、モンスターペアレント風に、大上段からキラキラネームを付けるならば、このタイトルには『牙米裸の逆襲』がふさわしい。


世界最高峰のモンスタームービー、『 ゴ ジ ラ 』(東宝映画)の重要なエッセンスは、一作目に完全凝縮されている。二作目以降、それが薄まることはあっても、別の視点で加味濃縮されて現れることは遂になかった。しかし、 “ファーストゴジラインパクト” の思想と科学と期待は、時と場所と表現分野を転移して還元する。ゴジラ宗家が庇護された環境の中で、リテラシーの低い客層をターゲットに、だらだらと加糖加水シリーズを産み落としている傍流で、世界も注目する大傑作『合帰邏の胎動』が始まる、 “セカンドアキラ・インパクト” だ。



ア・キ・ラ。アギラ、アンギラス、デスギドラ、メカゴジラ、モゲラ、モスラデスラー、マグラー、ベムラーゲスラガミラスガメラガボラ、ガンドロワ、ガルマ、ガル、ゲール、キール、キーラ、セイラ、ゼーレ、ゼットン、財前、ジオン、次元、ジグラ、グドン、ゲンドウ、ドレン、ドズル、ドメル、ドラコ、リトラ、トドラ、ドドンゴ、ドゴラ、ゴドラ、ラゴン、バラゴン、バルゴン、バラン、デギン、ギロン、ギレン、レギオン、ギララ、ギガラ、ぺギラ、ギドラ、城戸、吉良、キラ、不動明



伝承神話『呉爾羅』に、「尾ひれ」や「牙」や「角」や「翼」を付けることで、無限増殖した日本の「怪物の名前は、紛らわしく似ていてどれも同じだ」と思っている外国人が、「これこそ尾ひれを取ったゴジラの本意だ」と思って、感動と衝動と萌記憶に残るアンチヒーローの設定を、すべてぶち込んで脚本の中で爆縮してみたら、内容的には契約外作品の「尾ひればかりだった」というのが、この世界配給安定ヒット最新作品の、究極のツッコミどころだ。


されど、「無糖」と「ギャオス」に代表される、巷間をにぎわせている類似性に関する指摘が、全くの偶然とは思えない。ビジネス無知を装って権利侵害検証を怠り、怪獣無知なリスク管理担当者や経営トップを欺いていたとしたら、一周回ってこれは快挙である。経済大発展を遂げた資本主義体制に対し、これほど、緻密に計算された怪獣総進撃はない。国際連合安全保障理事会常任理事国より下等な日本は、大変よ戦争で、習合自由な合習国に二度も敗北を経験させられたことになる。、、いや、勝ったのはあの先達だ、米国ではない。



Q

初号機の覚醒とともに、要塞化した山間の都市が、強烈な光に飲み込まれ、NERVの陣形は跡形もなく崩壊し、 “エヴァを中心にサードインパクト” がはじまった。、、世界嵐がおさまり、突き抜ける陽光のもと、楽しそうにピアノを奏でて友情を確認し合う、シンジと言う名のトリガーと、「罪と希望」を預言する、十字架を背負ったゼーレの少年「渚カヲル」であった。



 「もうすぐ雲がきれる」


 「君の知りたい真実が見れるよ」






七人の侍 終局

野武士最後の襲撃とともに、要塞化した山間の村が、騎馬に踏み荒らされ、百姓の陣形は跡形もなく崩壊し、藁葺きの家には種子島を持った、敵の頭領が押し入った。、、嵐がおさまり、突き抜ける陽光のもと、嬉しそうに囃子を奏でて田植えに乗り出す、百姓衆と言う名の自治組織に対し、「侍」の敗北を宣言する、天才軍師「勘兵衛」(志村喬/シムラ タカシ)であった。



 「今度もまた、負け戦だったな」



  「、、?」



 「いや、勝ったのはあの百姓たちだ、」


 「ワシたちではない。」





AKIRA 終局

アキラの覚醒とともに、東京湾全域を埋め立てて建設したネオ東京が、強烈な光に飲み込まれ、高層ビル群は跡形もなく崩壊し、爆心のクレーターにはおびただしい海水が流れ込んだ。、、巨大嵐がおさまり、突き抜ける陽光のもと、難民を威圧するように、戦闘車両を連ねて人道支援に乗り出す、国連監視団と言う名の武装組織に対し、「大東京帝国AKIRA」の旗揚げを宣言する、健康優良不良少年「金田」であった。



 「責任者、出て来ーい!」


 「救援物資は有難く貰っておくぜ、だがそれ以上の行為は、」


 「我国に対する、内政干渉とみなす、いいな!」














【再掲載】「君の見たい(ゴジラ)が見れるよ」2
http://d.hatena.ne.jp/BRIDGET/20141110



『 ゴ ジ ラ 対 タイタニック
 


「権利関係」という最もタンニンなシステム支配下に関わらず、ゴジラの出てこない(ゴジラ)のような作品を果敢に製作してきた先達が、海外にもいた。


一作目ゴジラに続く、歴代シリーズにタンニンしていた熱心な初ゴジ信望者は、そんなクリエーターを多いに支持した。そして、そぞろ神が乗り移ったように、「時をかける兵士」達が目覚めると、古代の怪獣を一時忘れ、これに心狂わせた。神まねきにあった彼らが尊崇したのは、来世よりロサンゼルスに現出した、三宝荒神ターミネーター』と、賛美歌を奏でながら十字架と共に沈んだ『 タイタニック 』である。



さる関係者には誠に遺憾ながら、両者こそユニバーサル・バラエティ生態系の頂点に君臨する、真の呉爾羅であった。結果的に、ファン希求のゴジラ待望熱は、それら「ゴジラの出てこない、国外の(ゴジラ)」によっても解消された。



かつてハリウッドで製作された『 ターミネーター 対 サラ・コナー 』は、見てくれこそメインキャラクターが、機械人間の暴力と無慈悲と執念とを、正式契約に基づいて宣伝しているが、その実態はあろうことか「アクション・ホラー」ではなく、『ゴ ジ ラ』がまさにそうであったように、人類究極の選択に揺れ動く、若い男女の一途過ぎる「ラブ・ストーリー」であった。



また、一度は敵として倒したはずの大凶荒神が、忘れた頃に続編の中で甦ると、今度は心強い守護神になっているという、逆転設定まで同じだった。ゆえに、敵と味方が一致しないだけでなく、影響が子供(ジョン・コナー)に及び、シンクロが裏返しに双ループする現象が起こってしまった。



 悲劇の効用



公開当時、世界最高興行収入を上げた、モンスター級豪華客船の重要なエッセンスは、投げ捨てられる「碧洋のハート」に完全凝縮されている。出世作ターミネーター』では、愛についての主張が伝わらなかったためか、監督キャメロンは次に製作する作品から、思い切り分かりやすく舵を切り直した。そのため、これでもかというほど「愛」に比重を傾けられた『タイタニック』の、「巨大ダイヤ、ポイッとなシーン」は、期待した意味での理解に届かなかった。



アイロニカルなメッセージとして、十分痛烈だったにも関わらず、ラストにいたるまでがあまりに面白く、その過剰な感動のせいで、ほとんどの観客は、感極まり涙に咽び、論理的思考を止めていた。命を投げ捨てることで、至高の愛を成就させた『ゴ ジ ラ』の、芹沢博士とて同じことだ、なんともったいないメッセージであることか。



誰もが知っている「SOS」を、海難救助を求める信号として、歴史的初期段階に使ったのは現実世界のタイタニック号であった。しかし、沈没する貨物船に発信させ、世間に定着させたのは、実際のところ架空世界のゴジラである。後者には、戦後の復興途上にあった時代の、忘れるべからざる「戦災」や「大災害」や「政策ミス」に対する、「警鐘」や「教訓」や「戒め」が込められている。



今からちょうど60年前の、霜月11月。ゴジラは、「戦意発揚映画」でも「教育用ドキュメンタリー」でも「行政指導要綱」でもない、モノクロの「大衆娯楽作品」として公開された。それは庶民の目線で、奥(末端の意)の日本人に贈る、極めてわかりやすい「慢心」回避のための思想書でもあった。



敗戦からまだ10年経っておらず、水爆実験により日本の漁船多数が再び米軍の犠牲となったばかりで、660万人いた出兵兵士の「復員事業」は、この年まで続いていた。科学信仰が、疑いを持たれなかった1954年。過去の惨禍を忘れるように発展する「政治経済体制」に対し、置いてけぼりを食っている、貧しい労働者階級が、映画製作者の中にいたことも事実だ。



彼ら敗戦国の下層文民にとって、どんな文明利器も歯が立たない “怪 獣” は、単なる恐怖の的ではなかった。文壇の受けは良くなかったが、資本権力が横暴を働かせる中で、かのヒーローは、唯一奴らを懲らしめることができた。ターミネーターが、融通の利かない行政職員を薙ぎ払ってくれたように、ゴジラもまた、国会や警視庁や大新聞社を踏みつぶし、群がるうるさいレポーターを叩き落とし、うっぷんを溜め込んだ被抑圧者のカタルシスを、盛大に喚起してくれたのだった。



 アンダー・ザ・プレッシャー



上からの圧力にどこまで耐えられるかという、深海探索を生業とする、タイタニックゴジラ両作品の主人公達の視点は、映画の世界観に入り込んだ、平均的な観客(現代人)の立ち位置であった。『タイタニック』であれば最初に登場する、宝探しの「ビル・パクストン」であるし、『ゴジラ』であれば南海サルベージ社潜水員の「宝田 明」であろう。トレジャー・ハンターの妄執が過去に逆流し、隔てられた海の向こうで至宝の共振を生んだ。



さて、ゴジラと同じく「東宝」撮影所で撮影され、同じ1954年に公開された「国宝」級作品がある、、。その監督は、東京国際映画祭のポスターに起用されたことで、各方面で話題になっており、名前くらい知らないと、相当に恥ずかしいというレベルの、そういう大御所である。彼が、漫画「A K I R A」の由来ともなっていることは、「戦艦の論」的にも重要だ。直接この映画に関わっていないが、すでに作品評価の安定していた “黒 澤” 組は、隣のスタジオで制作する「G作品」チームを大いに刺激した。



一方、ならず者が集められた “本 多” 組には、「G作品」で主人公を演じた新人「宝田 明」の他に、かの有名な旋律を編み出した音楽の「伊福部 昭」、ゴジラのデザインをした美術の「渡辺 明」、宣伝を担当した「工藤 明」がいる。アキラで奇跡のフォーカードをツモったのは豪勢だが、「七人のアキラ」には三人も足りない。



やがて、ゴジラはシリーズを重ねるごとにマンネリ化していく。しかし、宇宙怪獣と戦わせるなど、荒唐無稽ながらも大胆なアイディアで、映画と娯楽の新境地を開拓していった。『 七 人 の 侍 』撮影中、ゴジラの撮影所へ遊びに行っていたらしい土屋 嘉男(好戦的な百姓役)は、後に「X星人」統制官役で、碇ゲンドウがつけていた不気味なゴーグルを着用し、宇宙なまりの日本語をしゃべって、純真な子供たちをビビらせた。
















 【再掲載】「君の見たい(ゴジラ)が見れるよ」3
http://d.hatena.ne.jp/BRIDGET/20150529



『 ゴ ジ ラ 対 宇宙戦争 』 



「権利関係」という最もタンニンなシステム支配下に関わらず、ゴジラの出てこない(ゴジラ)のような作品を果敢に製作してきた先達が、キャメロンのほかにもいた。


一作目ゴジラに続く、歴代シリーズにタンニンしていた熱心な初ゴジ信望者は、そんなクリエーターを多いに支持した。そして、そぞろ神が乗り移ったように、「突激トレーラー」達が目覚めると、古代の怪獣を一時忘れ、これに心狂わせた。神まねきにあった彼らが尊崇したのは、東海岸ビーチをパニックに陥れた、三報海神『 ジョーズ 』と、教会の十字架を土中に沈めた『三本足戦艦』である。



さる関係者には誠に遺憾ながら、両者こそユニバーサル・バラエティ生態系の頂点に君臨する、真の呉爾羅であった。結果的に、ファン希求のゴジラ待望熱は、それら「ゴジラの出てこない、国外の(ゴジラ)」によっても解消された。



かつてハリウッドで製作された『 三本足戦艦 対 トム・クルーズ 』は、見てくれこそメインキャラクターが、機械兵器の暴力と無慈悲と不気味さとを、正式契約に基づいて宣伝しているが、その実態はあろうことか「SF・戦争アクション」ではなく、『ゴ ジ ラ』がまさにそうであったように、命を賭して愛情表現する、不器用な男の一途過ぎる「ヒューマン・ドラマ」であった。



ゆえに、名称と中身が一致しないだけでなく、連想がスター・ウォーズに逆流(Strikes Back)し、シンクロがリジェクトされる現象が起こってしまった。そうした意味で、改めて権利元からではなく、ガテン風に、最下段から職種分類ネームを付けるならば、このタイトルには『クレーンオペレーターの逆襲』がふさわしい。




 バクテリアの効用



公開当時、世界最高興行収入を上げた、モンスター級侵略兵器の重要な弱点は、指に刺さった「トゲ」に完全凝縮されている。出世作E.T.』では、宇宙人愛についての主張が伝わり過ぎたためか、監督スピルバーグは次に製作する宇宙作品から、思い切り分かりやすく舵を切り直した。そのため、全生類の敵となった先進宇宙人とのワールドワイドな防衛戦を、「混入」程度に比重軽減された『宇宙戦争』の、「巨大メカ、ボテッとなシーン」は、期待した意味での理解に届かなかった。



アイロニカルな表現として、十分痛烈だったにも関わらず、ラストにいたるまでがあまりに残酷で、その過剰な描写のせいで、ほとんどの観客の期待は冷め、良心的思考を止めていた。異物を排除することで、グローバル生態系の調和をはかった『 地 球 』の真正細菌とて同じことだ、なんともったいないメッセージであることか。映画中盤、トム・クルーズの隠れ家へ遊びに行っていたらしい、純真な子供宇宙人たち(チブル星人 X グモンガ)は、母船の雄叫びにビビって退散した。その時、生水を飲んでいたため、食あたりをして後に全滅する。ゴジラの猛々しい咆哮に、その音階が似ている特殊効果音は、『未知との遭遇 』母船の警笛音をベースに奏でられていた。



上からの圧力よりも港湾労働組合を優先とする、トム・クルーズ演じる主人公の視点は、映画の世界観に入り込んだ、恒常的な観客(カメラ)の立ち位置であった。ほとんどの場合、地上からの目線で、巨大な三本足怪獣を見上げていたが、主人公に合わせて二度だけ空に浮いた。イントロダクションであれば最初に登場する、船舶積荷のクレーン『操縦席』の高さであるし、クライマックスであれば「たこメカ」の積荷として、釣り上げられ、押し込められた『獲物籠』の高さである。そして、人喰いハンターの触手がトムに巻きつき、あわや一巻の終わりと思われたその時、油断していた向こうの胃袋で、手榴弾からの内部誘爆を生んだ。



 Mars, the Bringer of War



さて、誰もが知っている「ジョーズのテーマ」(作曲 ジョン・ウィリアムズ)を、歴史的初期段階に使ったのはクラシック界のドヴォルザークであった(「新世界」第4楽章の出だし)。しかし、低音で始まるメロディーを繰り返し演奏することで、世間に恐怖を定着させたのは、実際のところゴジラ(作曲 伊福部昭)である。「ゴジラ」のテーマは、ホルストの「火星」がその代表であるように、戦争をイメージさせる曲として、宇宙戦争のみならず、セブン(「侵略者の魔手」)やジオン(「窮地に立つガンダム」)やエヴァ(「ANGEL ATTACK/The Beast」)にも応用されている。





ゴジラゴモラかガラモンを撮りたかったスピルバーグの「宇宙戦争」は、「火星人襲撃ラジオ番組」でも「アメリカン・ヒーロー・コミック」でも「星間戦争映画」でもない、「地上のみを舞台とした、家族密着ドキュメンタリー風ドラマ」として製作された。そのため、カメラは一時もトム・クルーズから離れない。まれに超人的な活躍をするものの、その内半分くらいは普通で、一割くらいは子供に呆れられている。それは、だらしない父親の目線で、カッコイイつもりの父親に贈る、極めてわかりやすい「虚栄」回避のための指南書でもあった。
























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