戦艦の論 THE SEVEN XX「排除されないということはございません。排除いたします。」







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 そして『ハクソー・リッジ』DVD & Blu-ray 発売日




【銃閉症】『ハクソー・リッジ』評 - part1




スゴい戦争映画である。目を背けたくなる程に生々しく凄惨なシーンの連続に、スピルバーグの『プライベート・ライアン』を超えたとも称されている。引き裂かれた胴体を楯に弾幕に突っ込むなどというのは、要塞ア・バオア・クーのMS戦でしか見れなかったものだ。実在する人物の、事実に基づいた設定ということもあり、『破躯喪・リッジ』はアカデミー作品賞にノミネートされ、2部門では受賞を果たしている。監督は1995年『ブレイブハート』でその監督賞を獲得したメル・ギブソン。1979年『マッドマックス』では主役を演じ、それ以来日本でも絶大な人気を誇るスターである。





 立ちはだかる障崖



『吐クソー・リッジ』を見てない人にはまるで伝わっていないが、あるいは見たとしてもあまり印象に残らないが、主人公が対峙したのは日本軍であり、戦艦ミズーリが主砲をぶっ放す先は、センシティブな問題が山積している我が日本の領土沖縄であった(ちなみにハクソー・リッジは勝手につけられた崖の名称)。とは言え、どの国家との戦争であったかは、オーストラリア人の作った映画のテーマを語る上でさして重要ではない。



かつてアメリカは、北朝鮮に狙いを付けられたように、東の端の大帝国の標的にされ、さらには軍事拠点とその周辺への攻撃を敢行され、国難突破解散が可愛く見えるほどの大国難に遭遇していた。主人公「デズモンド・ドス」は、多くの青年たちがそうしたように、勇んで軍に志願した。しかし、彼は他の兵士と異なり銃を持つことだけはかたくなに拒んでしまうのだった。



銃をもたない理由はハッキリしている。敵国を倒すことが正義だった時代に人を殺さないためである。デズモンドは宗教上の理由から、時に暴発で人を殺めてしまうこともある銃器を絶対的に排除したのであった。いかに自由の国アメリカであっても、いかにキリストが殺すなかれと言っても、いかに少年期にトラウマがあったとしても、そんな理由で武器排除の論理が通用したら、軍隊組織は内部から崩壊する。排除されるのは案の定、デズモンドの方だった。



先の選挙の立憲民主議員のようにつらい立場に追い込まれた彼は、それでも希望を捨てなかった。結果を言えば、周りの無理解の方が明らかに優勢であるにも関わらず、問題ある父親が無理の中にも無理を押し通してそれを解決した。この、軍法会議によれよれと現れた父親が判事の情けを誘い、息子が「良心的兵役拒否者」として入隊を許される場面は、二番目に感動を呼ぶところである。ダメ親父は第一次世界大戦に従軍したことである障碍を発症していた。



沖縄戦終結した6/23「慰霊の日」翌日に、これ見よがしに公開された好戦映画は、元学生左翼が牛耳るリベラルメディアの記者たちから案外良心的に受け入れられた。アカデミー受賞という権威と、主人公に銃を持たせないという、反戦左翼の好きそうなワードマジックが効いたからだ。戦争が引き起こす暴力が凄惨であるほど、虐げられる立場を追跡したストーリーは同情的に理解される。反戦平和さえほのめかせば、どんな真意が隠されていようと良心的左翼市民の過干渉をスルーパスさせることができる。彼ら戦争的映画拒否者への配慮を最大限整えておくのが、良心的戦争映画作りの極意である。



そのぐらいのことは戦争映画を作りたがっている、全ての反戦的映画拒否者が把握していることだ。カッコよくて萌える戦闘場面が売りのマンガもアニメも例外なく、都合よくごまかしながら「戦争よくないね、繰り返してはいけないよ」ちゃんちゃん、で始末をつける。しかし、この『戰爭・リッジ』をなめてはいけない。映画はそんなありふれたエンディングになっていないし、戦争を否定するようなワードは一切ない(訂正/もう一度見たら、ないこともなかった)。勘違いがあるとしたら、キノフィルムズさんの配慮あふれる宣伝によって、錯視した映像と誤訳した台詞を先入観と固定観念に結び付けて、描かれてもないドラマを妄想スクリーンに映写したためでしかない。



デズモンドが頑強に武器を持たないのは信仰心のためだったが、その現象だけを持って信仰心の素晴らしさを訴えていると考えるのは早計だ。架空の設定で、ちょっと論点がズレるが『太陽にほえろ!』のジーパン刑事も「銃を撃てない」はみ出しキャラだし、『ダイ・ハード』でジョン・マクレーンを最後に救った巡査部長も「銃コンプレックス」を持っていたため出世の道を閉ざされていた。『迫葬・リッジ』は一度しか見ていないので、もう一度見て間違っていたら訂正するが、実在のデズモンド氏は兵器を持たないのではなく、心理的に持てなかったとも考えられる。もっとも、突撃銃を担架の持ち手(ただの棒)と見なせば利用できる(そういう皮肉な演出が所々ある)。しかしながら、銃と認識したとたん不能となってしまうのは、意思や思想や宗教の問題ではなく、一種の強迫症だ。この身もふたもない理由には、もっと多くの裏付けがあるが長くなるので今日はこれまで。



さて、私個人の一番の感動場面は、断崖戦での英雄的活躍があって、まわりの見る目が変って「さあ、これで本国へ帰れる、妻の元へ帰って平和な日々を送れる」と思わせたところで、もっと過酷な史上最悪最低の地獄へデズモンド・ドスを突き落す、その次の場面であった。内容は今回端折るが、これには少しびっくりした、さすが変態監督だと思った。この人も、手塚治虫スピルバーグと並ぶ大いなる障碍者に違いない。



 part2に続く。









2016-11-03 ARTISAN 1
戦艦の論 THE SEVEN XVII「エヴァをやって評価され過ぎた。次に、彼らしいものを、実写で」

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