戦艦の論 THE SEVEN IX「こんなこともあろうかと。(真田さん) 」





〜 2012-05-07 の投稿「イスカンダル・エクスプレス」を振り返って〜
 → http://d.hatena.ne.jp/BRIDGET/20120507/1336333331


桁違いな経済格差を持つ敵勢力の断続的な攻撃に抗い、大航海の間、限られた補給のみで遂には艦隊決戦にも生き延びる。という神話の主は、宇宙戦艦「ヤマト」である、、。このような出だしの「シンクロニズム 戦艦の論」の連載が始まって、かれこれ四年が経過する。



当ブログの本来の目的はイラストの掲載であったため、その絵画に添えるキャプションとして「戦艦の論」はスタートした。「戦艦」のワードを用いたのは、当時公開されていた映画のタイトルが、たまたま反映されたからであって、戦艦オタクのための戦艦論を書きたかったからではない。とはいえ、大戦後に実在を失ったバトルシップという言葉が、これだけ普遍的に用いられているというのも特異な現象である。このことには改めて気づかされた。



 城と戦艦 



戦艦の先輩にあたる言葉に「城」がある。戦国時代の前半までは、「戦い」(守り)のためにしか存在しなかったが、大名の勝敗優劣が明らかになり、天下統一が決定的となるにつれ、それは無益に争わないための、権威の象徴に存在を変えていった。安土城大阪城江戸城は、特にその性格が強い。



同様に、大戦直前に建造計画された超弩級戦艦も、できれば戦わなくて済むよう、戦闘回避の願いや恒久平和の思想を反映して、莫大な国家予算と人的労力がかけられたのであった。残念ながら、威圧運用を主目的としていたので、数値上の攻撃力・防御力のみに注力し、捨て身で肉薄してくる、機動力のある敵との戦闘はあまり想定していなかった。



「城」は平面での防御には強いが、海上の「戦艦」が大砲を撃ち込めば逃げようがない。その戦艦は、大砲からは逃げ回ることができるが、航空機が空から爆弾を投下すれば防ぎようがない。過去のノウハウは、科学の進歩によって容易に陳腐化する。このように、実践の世界は、より急激に言葉の意味内容が変わる。にもかかわらず、城も戦艦も死語化せずに生き残っている。その趣味のおじいちゃんしか知らない、ということにならないのはなぜなのか。



沈没した戦艦は宇宙へ飛び立つし、西南戦争の「熊本城」は九州大地震からの復興のシンボルになろうとしている。また、戦国時代に終わりを告げた、城というより砦か船かという名称の「真田丸」は、夏の観光の目玉となっている。いずれも戦争の目的は霧散して、娯楽と経済と商売の旗印となっている。現代に至るまで使っている言葉が必ずしも、その本質を言いあらわさない好例と言えるだろう。



さて、真田さんの開発した数々の新兵器が地球の未来を救う神話について語っていたはずが、大きく振れたブログの回がある。論調がアニメか映画に興味ない人には、理解できないようになっていたので、たまには一般の人にも読んでもらおうとしたものである。かなり思い入れて書いているので、再度、画像などを追加して掲載することにした(最後のオチを復活させる意味もある)。→ http://d.hatena.ne.jp/BRIDGET/20140716/1405501142






【補完再録】PROJECT IZUMO 1 [夏休み 課題えらびは 芭蕉かな]





 
 「銀 河 の 序」


  北陸道に行脚して、越後の国「出雲崎」といふ所に泊まる

  彼佐渡がしまは、海の面十八里、滄波を隔て、東西三十五里に、よこおりふしたり

  みねの嶮難の隈隈まで、さすがに手にとるばかり、あざやかに見わたさる

  むべ此嶋は、こがね(黄金)おほく出て、あまねく世の宝となれば、

  限りなき目出度島にて侍るを、大罪朝敵のたぐひ、遠流せらるるによりて、

  ただおそろしき名の聞こえあるも、本意なき事におもひて、

  窓押開きて、暫時の旅愁をいたはらんむとするほど、

  日既に海に沈で、月ほのくらく、銀河半天にかかりて、星きらきらと冴たるに、

  沖のかたより、波の音しばしばはこびて、たましいけづるがごとく、腸ちぎれて、

  そぞろにかなしびきたれば、草の枕も定らず、

  墨の袂なにゆへとはなくて、しぼるばかりになむ侍る



 あ ら 海 や 佐 渡 に 横 た ふ あ ま の 川





1689年七夕。松尾芭蕉は、新潟県本土側中央部の海縁に位置する出雲崎町で、あまねく世の宝となる一句を詠んだ。むべ此地は、純国産朱鷺の絶滅地である大佐渡の山々が、きらきらキラーと冴えたる波面の向こうで、手に届くように、あざやかに見わたさる風光明媚な田舎町である。







幕府直轄領であったが、北越戦争では官軍に抵抗せず、中越地震でも大きな建物被害はなかったので、北国街道に沿って昔ながらの妻入り長屋が残っている。北方には角上魚類で有名な寺泊があり、越後一ノ宮のご神体「弥彦山」がそびえる。街道の西寄り終点には、最古の尼瀬油田と、獄門の遺跡があり、さらに目を遠くにやれば、おそろしき名の聞こえあるも、本意なき柏崎刈羽原発と、沖のかたよりうっすら能登半島も視認できる。


奥義という言葉にも使われる「おくのほそ道」の「おく」は、おじいさんが芝刈りに行った山奥などの所在状況を表現したものではなく、特定の地所を指す言葉であると解釈できる。その地域とは、同じ語を含む奥州、今の東北地方のことだ。「大和」朝廷の支配が遠く及ばない、最果ての地を「道の奥」と定め、それが訛って「みちのく」という言葉に変化し、東北六県を演歌調に表す形で残っている。



 都と朱雀



北の「細道」と対照的なのが、天皇がおわす宮城の、門から南にまっすぐ広がる「朱雀大路」だ。そのブロードウェイを往来する都人の常識の中で、越後はかろうじて見聞きできる越国(こしのくに)の最背面にあり、蝦夷の民との混住地域、または領有権争いの最前線であった。そんな不安定な土地から、さらに海を渡らなければ到達できない孤立地が佐渡島である。


彼の地は当時考え得る、内国でもっとも遠い地であったので、島流しとしては最上級に厳しい、過酷な流刑地として認識されていた。流された人には、時の最高権力者の不評を買った政治家や、高名な思想家や、有能な芸術家も多かった。ところで室町、戦国と、時代を経るに従い、越後は開墾され未開の地ではなくなった。そればかりか、佐渡では金山が発見されて、未曾有の経済大発展を遂げていた。芭蕉が行脚した江戸時代に、金運搬船の荷揚げ地となった出雲崎は、罪人送りの殺伐とした雰囲気を失い、人々が集まりバブルムードが漂っていたに違いない。




武家政権に逆らった天皇が、知らない土地に流されて、怨念を募らせたことなど、遠い昔の出来事を思い起こしてみた。世の中がひっくり返るような大事件もたくさんあった。今、こうして自然に抱かれ、遥か遠くで悠然とまたたく銀河を眺めていると、いかに人間というものは、小さなことで騒々しく波立って、大きく変わらない存在というものを忘れているだろう、と考えてしまう。あの天の川が架け橋となって、無実の魂が還ってこれたらいいのに。」



 わび と 玄



これは実際、紀行文である。各地の名所旧跡を取り上げ、素朴に感じ取った感動を「わび」の概念に凝縮している。「侘び」とは、アンチ・ブロードバンド・システムのようなもので、侘助が開発したLOVEマシーンの対極にある。より速くなく、より新しくなく、より大容量でないが、ほのかに美しい性能、と言えば伝わるだろうか。


それなりに知られた地を行き先に選ぶことで、読み手の興味を引き出し、分かりやすさの手助けにしたかもしれない、しかし、東北観光ガイドとしてだけ書かれた訳ではない。潤沢な資金を持たず、年老いてフクシマ、平泉、多賀城へ向かった目的は、そこで起こった、悲しい出来事、人知を圧倒する自然の風化力、権力交代によって忘れられた土地、これらを直に肌で受け取り、その背景に故事と叙情をシンクロさせて、文章表現することにあった。


朱雀大路の朱雀とは対になる、北を司る神獣のことを玄武という。北極星の方角を意味した「玄」には、空間・時間を超越した哲理を含み、玄人という言葉にも用いられている。その、いわゆるプロフェッショナルを装いたい素人が、最も嫌いなものは遠回りの細道だ。


せかせかと結果を出すことに追われ、誰もがすでに忘れかけているが、今年前半は、その偽装事例については大収穫があったので、メディアも嬉々として糾弾の大路を突っ走った。一方、真のプロは近道探しなどに興味はない、彼らは多くの脇道に入っては「行き止まって戻る」を、何度も何度も繰り返し、人の知らない道を歩んだ副産物として、ようやく「その道のプロ」と言われるようになる。


「目先の大路」が、作曲家や夕刊紙やワイドショーの大衆煽動テクニック、秒速で稼ぎたい地方の議員やブロガーやイベント会社のハウツー、科学論文執筆者や三流雑誌や戦艦の論のコピペ慣習、であるとすれば、「奥の細道」とは、険しく長く暗い道の中で喘いでいる人の、さしあたりの脱出手引書である。


政治的恩恵の行き届かない地方に分け入り、生活現場の目線に迫り、時代状況に即した規範を規律に加えるための、新たな歴史解釈の試みであったかもしれない。そして、幕府つぶやき本でも朝廷エッセイ集でも政府広報誌でもない、片道覚悟の命がけの軌跡にして、時を超えて奥(未来の意)の日本人へ贈る、漂泊の思想書でもあった。




 「あら海や 佐渡に横たふ あまの川」




太平洋や東シナ海でも「天の川は横たう」。人工の光が周辺にないときは、夜空のそれは美しいに違いない。だが日本海(Japan Sea)で、しかも、その先に佐渡がなければ、絶対にこの深みとロマンチシズムは生まれない。


「荒海」。夏の日本海は総じて凪いでいるので、天候のよい星明りの海辺で、波頭は高く上がらない。そうは言っても聞こえるリズミカルな波の音が、それ以外の雑音をかき消してくれ、深夜の海は一層神秘的だ。うわさに聞く玄冬の荒海を、「はらわたがちぎれるほど」荒々しい自身の心情になぞらえ、夏の海に重ねてみたのではないだろうか。


「奥」の手。奥座敷の秘湯を、裕福な老夫婦に紹介する旅番組や、野や山にひっそり咲く花の、奥ゆかしさに触れたJR東日本のポスターなんかで、安直に添えられる機会が多い芭蕉の句。


「道」。交通路のほかに、都を中心にした五畿七道(北海道を入れると八道)の行政区画としての意味や、哲学・宗教としての意味も付随している。だとすれば、宇宙へ想いを馳せた芭蕉は、細い道で何を暗示したのであろうか。











【補完再録】PROJECT IZUMO 2[ジェロ と 海雪] 




 あなた追って出雲崎、悲しみの日本海


 愛を見失い岸壁の上


 落ちる涙は積もることのない、まるで海雪



海雪 ジェロ 歌詞情報 - goo 音楽



なんで「あなたを追った先」が出雲崎なんだ? 地元の人はそう考える、確かに浜焼きがうれしい露店や名所も数あるが、全国的知名度に乏しいことはよく知っている。夏場限りの民宿はあれど、観光ホテルはないといってもいい。越後線出雲崎駅は日中、ラッセル車以外の車両を見ることは出来ない。かつて、組織票を使って、良寛様の聖地を県の景勝百選のNo.1に推した町民が一番驚いたに違いない。





強いて考えられるとすれば、関東から車を飛ばして最も早く来られる日本海出雲崎にあるということだ。冬の日本海はいつ見ても「モノクロで、重く、切ない」、暗く沈んだ気持ちを、より劇的に盛り上げてくれる絶好の舞台になる。けれど、出雲崎は身を投げられるような高い岸壁はなく、漁港がある以外は砂浜が続く比較的平凡な海岸だ。件のヒットクリエーターは、見たことも行ったこともないそこに、天の川ではなく金脈が横たわっていることを、抜群の嗅覚で嗅ぎ取った。



 イズモとヤマト



反対の見方をすると、日本海から江戸に超高速参勤交代するには出雲崎が適当だ、そのため佐渡で産出された御用金はここで陸揚げされた。また、遥か昔、まだ蝦夷の民が、アルプス山脈で遮られた東日本に幅広く生活していたころ、新天地を求めて北に移動して行った「出雲の民」の、海からの初上陸地が、その名、残りの出雲崎だったと思われる。


文字が大陸から伝達される以前の歴史なので、推測するしかないが、進んだ稲作文化や祭祀文化を東北にもたらしたのは、彼らだったようだ。少なくとも、「大和の民」が近畿を経て東海、関東を掌握し、その勢いを持って越後山脈を乗り越え根をおろした訳ではない。むしろ逆だ。関東を支配する豪族は、越後から南下して坂東武士の起源となった。したがって、大和から見て武蔵は弟でも孫でもない、系統的には別の国家観を持って発達した、異なる文明とその子孫たちであった。いずれ反乱が起こるのは自明の理だ。



出雲崎は、海路と陸路の交わる要衝であり、

出雲と蝦夷の、列島内民族の出会いの地であり、

大陸を隔てたゴスペルと演歌の、奇跡の交錯点でもあった。










【補完再録】PROJECT IZUMO 3[佐渡 と 新見氏] 




承久の乱

1221年の鎌倉時代、朝廷が幕府に対して起こした反乱。
敗北した順徳上皇佐渡島に遠流された。


・新見氏

上記乱の後、新見庄(岡山県西北部)の地頭として土着した武家


・出雲計画、バレラス遷都計画


 『宇宙戦艦ヤマト2199


地球人を蛮族扱いする帝政宇宙人勢力との激闘の末、

ついに天の川銀河の外縁部にまで到達したヤマトの艦内食堂では、

連戦に一息つけた記念に「天の川ランチ」の提供を開始した。

そんな折にも反乱の萌芽は、敵の中にも味方の中にも潜伏していた。


佐渡酒造
(艦内ドクター/新潟出身)
人情論のアナログ対応チューナー

VS

新見女史
(艦内カウンセラー/京都出身)
データ分析のスペシャル・アプリケーション



JR伯備線新見駅」に停車する下り方面の特急は、すべて出雲市駅行きである、、。
いつか、語られるかもしれない第12話「その果てにあるもの」へつづく。











http://yamato2202.net
脚本 福井 晴敏


 





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戦艦の論 THE SEVEN VIII「見せ方という点で『亡国のイージス』よりよほど好きだ」





富野由悠季監督 映画講座】


『団地』ヒット御礼トークイベントより

富野由悠季監督『団地』を語る 〜



ネタバレあり


富野監督「『団地』というタイトルで藤山直美さんで何をやるんだ。予備知識ない状態で、死ぬほどつまらない映画だと思った。だけど阪本監督とは、福井晴敏さんを通じた関係なんで。」



「観てみたら、あれっ、て。」



「映画は作り物でなければいけないということを、頑張って作為(演出)しているところは、観ていてとても気持ちよかった。」



団地の関西人の胡散臭い話言葉がズルズルいく中に、斎藤工さん(天気傘のサラリーマン)の



『準備万端バルタン星人、大事なお願いがあってきました』



のような嘘っぽいもの、劇構成ができないかも知れないものを、滑り込ませる凄さだよね。」






阪本監督「どうしても、作為というか“けれん”は好きになってしまうんですよね。」




「そうでなければならない。リアリズムを追求してもカットが入ると作為になる。だから劇映画とかアニメで作品を見せるとは、物語をどう構成するかに尽きる。」


「ディテールにこだわると、役者やアニメーターの作品になってしまうんだけど、今回のはちゃんと阪本監督作品になっていた。」




阪本監督「いろんな僕の映画を観てくれた人たちには、『急にSF ? どうしたの ?』とか突っ込まれるんだけど、僕は自分らしく仕上げたつもりです。」




「そういう人は、映画が作り物だと知らない人だ。映画でプロパガンダができるという昔の観念を持っている人だと思います。デジタルでかなり自由に動画が作れるようになっています。でも、そういうのを取り入れるほど、つまらない話が多くなっている。それは物語を伝えていないということ。作り物は最初の一本でいいんだよ。」


「、、すいません、ガンダム何十本も作ってます(小声)。」










http://danchi-movie.com












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戦艦の論 THE SEVEN VII「避難民よりガンダムが先だ。ホワイトベースに上げて戦闘準備させるんだ」





語源辞典 その一 「母の日」
http://gogen-allguide.com/ha/hahanohi.html
(母の日のルーツは少女アンナ)







【部分再録】 〜 「母の日」には 花 を 〜

2014-05-11 戦艦の論 5-10 より
http://d.hatena.ne.jp/BRIDGET/20140511/1399750465




 「どうして “ 花 ” って言うの?」



「名前?」



 「うん。」



「私が産まれた時、裏庭にコスモスが咲いていたの、自然に咲いたコスモス」

「それを見て、父さんが思いついたんだって、花のように、笑顔を絶やさない子に育つようにって」

「つらい時とか苦しい時に、無理矢理にでも笑っていろって」




日本興行収入160億円を突破し、なおも勢いに乗る『アナと雪の女王』の「アナ」は、「アンヌ」の英語読みであり、語源は “ 慈 愛 ” を意味するヘブライ語「ハンナー」(Channah)から起こっている。ちなみに「セイラとサラ」がそうであるように、「ハナとジャンヌ」、「花子とアン」、も同系統の名前だ。


ところで、野に咲く、名のない花のシーンで始る『おおかみこどもの雨と雪』の主人公の名前も「花」である。なんだか作品タイトルが『アナ雪』と似ている『アメ雪』の、母親名の由来をこじつけに、慈愛溢れる「ハナ」としてみると、偶然に間違いないが「花とアンヌ」はシンクロしている。






 

【部分再録】 〜 元、父の日 〜  


2015-05-19 戦艦の論 6 - 6 より
http://d.hatena.ne.jp/BRIDGET/20150519/1431965633





 「テロリストなの ?」



「よそから来た奴らだ」



 「ヨーロッパから来たの ?」



「ヨーロッパなわけねーだろっ !!」




息子ロビーに本気ツッコミするレイの名前は、レイ・ハリーハウゼンから来ていると思われる。

 1. レイ (トム・クルーズ) ← 「レイ・ハリーハウゼン」 『原子怪獣現わる』監督
  車の中でヒステリーをおこす妹は、
 2. レイチェル (ダコタ・ファニング) ← 「レイチェル」 『ブレードランナー』のアンドロイド(ショーン・ヤング)
  それをなだめるのが得意な兄は、
 3. ロビー (ジャスティン・チャットウィン) ← 「ロビー・ザ・ロボット」 『禁断の惑星』に出てきた、一般的ロボットの原型
  特撮の父に、SF界のトップヒロインなど、日本のアニメ・特撮に大影響を与えた名キャラクターを勢ぞろいさせている。

 4. オグルビー (ティム・ロビンス) ← 「オーグルビー」
  小説『宇宙戦争』主要人物にして、序盤の犠牲者の一人


そして、端役の新父ティムは、


 5. ティム (デイビット・アラン・バスケ) ← 萌えの父「手塚治虫
  (アムロのお父さんテム・レイ博士の由来もここから)


別れた妻でレイチェルとロビーの母親は、


 6. メリー・アン (ミランダ・オットー) ← 萌えの母「友里アンヌ」
  (ウルトラ警備隊のほか、科特隊パリ本部隊員もアンヌ、同インド支部隊員は真里アンヌ。メリーアンとマリアンヌが同系統の名前ならば、真里アンヌと一字違いの友里アンヌとメリー・アンは連結する)




【部分再録】  他人の空似




おおかみこどもの雨と雪

 母「花」 ← 「アンヌ」(アン、ハンナ、ハナは同じ語源)
 姉「雪」 ← 「森雪
 弟「雨」 ← 「綾波レイ」(髪型と赤瞳のルックスが)




スピルバーグ監督が「父と子たち」によって、原子怪獣とレプリカントと旧式ロボに敬意を表明したように、細田守監督は「母と子たち」によって、セブンとヤマトとエヴァへの愛を宣言した(ように解釈できる)。「戦艦の論」では、「オマージュ」と言えるような主体的関与は不明ながら、偶然とみなすには似過ぎている事象を「シンクロニズム」と呼んで、公的解説と区分けしてきた。これからは、そのような私的解釈論の中でも、神話的キーワードで表象されている例を「憧憬の空似」として、明らかに見極めていく。






 _ 再録おわり(以下から現在)





他人の空似 二





「ん、アムロ、避難しないのか?」


 「父さん、人間よりモビルスーツの方が大切なんですか !!」



「早くホワイトベースへ逃げ込むんだ」



 「ホワイトベース?」



「入港している軍艦だ」







一昨年、母の日の投稿で、「花」と「アンヌ」のシンクロは偶然とし、昨年は父の日に絡み、「テム・レイ博士」の由来は「手塚治虫」だったと紹介した。今年も父母キャラクターの命名感覚について、改めて深掘りしてみたい。


アムロのお父さん、テム・レイ(「ティム・レイ」)のレイは零戦のレイだ。先にアムロのネーミングがあって、零戦の開発番号(A6M)を由来としたのが、やや苦しい表向き(後付け)の理由となっている。ところで、エジプト神話には「テム」という天地創造神が存在する。故にイメージ上の出自はこちらの可能性もある。エジプト九柱の神々の筆頭格でアトゥム、アテム、トゥム、アトムとも呼ぶとのこと。手塚どころか、その代表作にもつながった。


アトムが原子力を動力源にするところはガンダムに同じ。そして鉄腕アトムにシロウ(天外伺朗)をかけ合わせ訛らせると、テツワムアムロウ→ テム=アムロ になる。これは、ガンダムが仮の名「ガンボーイ」と呼ぼれていた時の設定「テムロ・アムロ」に近いことがわかる(企画メモ参照)。したがって「零戦」は、露骨にアトムを連想させないようカモフラージュするための、追加アイテムだったと想像できる。





いずれにしても、ガンダムの「生みの親」と「主人公」と「主役ロボ」がアトムの後継であることに違いない。また、底知れぬ手塚の偉大さをも物語っている。大事な存在のネーミングや神話の成形は、機械的、偶然には行われない。大切なものであればあるほど、名付け親は、恣意的に考え、至当な語感かどうかを繰り返し確かめる。残された公式書類に記載されている「事実か否か」は、ネーミングの「真実を探る」上であまり関係ない。インタビュアーが高リテラシーでない限り、原作者が神話から由来していると語ったところで、ちゃんと理解した記事にならないので、あとで、適当な思いつきが付け加えられたり、作為的な理屈がネット上で一人歩きすることもある。



日本(地域)に記録文字(漢字)が本格的に伝わってきたのは三世紀頃と考えられている。それに対して、固有の音声言語(やまとことば)が発達したのはそれより遥か昔である。では、記録に残っている以前の言葉はいったいどこから生じてきたのであろうか。日本人そのもののルーツに関わることで断定はできないが、渡来について興味深い説がいくつかある。「ヨーロッパから来たの ?」



「ヨーロッパなわけねーだろっ !!」



例えば、古代パレスチナで用いられた言語だ。ノア、ソロモン、ダビデ、シオンと言えば、馴染みのガンダム語辞典にも載っていそうだが、もともとヘブライ由来だ。伝播力の強い三千年の歴史をほこるヘブライ神話が、古代日本列島にだけまったく到達しなかったとは考え難い。その他多くの地域では強国の侵略を受けるごとに、文明の劣化と上書きがなされるが、日本だけは世界でも類例のない超長寿国家なので、その影響が、時々の外来思想の影響を受けて、大きく変質したり成熟化することはあっても、根絶やしにはされなかったと考える方が、自然ではないかと思われる。



つまり、キリストのおばあさんの名前である「アンナ」と、いつも笑顔の表情を見せる「花」のルーツを遡ると、かなり近いところに行くのではないかという空似論だ。美的認識の共感理由は、絶対言語級の課題かもしれないし、専門的には音声感覚のジャンルなのかもしれない、遺伝子レベルの刷り込みかもしれないし、いまのところ正直よくわからない。



語源辞典 その二「花」
 http://gogen-allguide.com/ha/hana.html
 (ハナ=アンナ説はどこにもない)



アムロのお母さん「カマリア・レイ」は、キリストのお母さんの名前に「かあさん」(かか様)の「か」をつけたのだと推測できる。マリア、マリ、メリー、も同源とみなすと、メリー・アン(『宇宙戦争』のおかあさん)は、キリストの母と祖母の最強のタッグだったわけだ。さて、急に私的な話題に転ずる。昨年、実家の家系図を見る機会があり、早くに亡くなった父方の祖母の名前が「ハナ」であることに気づいた。アンヌにこだわって論を始めた自身のファミリーヒストリーについては、話がズレて長くなりそうなので、次の機会に譲る。



















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戦艦の論 THE SEVEN VI「たすかって ばあさんになって あたたかいベッドで死ぬんだ 今こんなところで死ぬわけない」








【 巨大怪獣 】 『タイタニック




ホワイトなジャック と 薔薇色のローズ のあいだに








 「ロ−ズ 船のチケットは本当に幸運だった」



 「それで君に出逢えた」



 「天のお導きだ 感謝しかない」



 「約束してくれ 僕のために、、、」



  (絶)









奇子』をお勧めいただいたきっかけは以下の投稿であった。



 _ 以下引用


タイタニック』は、一番最初に劇場で観たのが小学生の頃でした。
それから何度も見る度に、歌の『100万本のバラ』が連想されます。


「ある売れない画家が女優に恋をして、遂には家を売ってそのお金で街中の薔薇を彼女に贈る」という歌詞の、昔の歌です。日本語でもカバーされてますが、洋楽が原曲ですね。




『100万本のバラ』(原曲歌詞は、ロシア語版とその内容を訳した日本語版とで異なる)



その歌の歌詞では、話したこともない女優に対して、画家は家を売ってまで薔薇を買い占めたり、命を捧げる、とまで言っているんです。叶わないと知りながら無償の愛を捧げる、という所が『タイタニック』同様だなと、すごく思っていました。





 _ 引用おわり(以下は著者)



タイタニック』は、「フランダースの犬」や『風の谷のナウシカ』等との類似でたびたび取り上げてきた。それを受けての感想であった。


フランダースの犬
A Dog of Flanders シンクロニズム『タイタニック』の論
戦艦の論 3-17「お、おらと、つきあってけろ!」
AKIRA
戦艦の論 4-6「My Heart Will Go On. 」
風の谷のナウシカ
戦艦の論 5-3「その者 蒼き衣を纏いて 金色の野に降り立つべし」
サマーウォーズ
戦艦の論 5-6 「母さん、おおかみってどうしていつもわるものなの?」




ジェームズ・キャメロン監督が『100万本のバラ』を意識して、ヒロインに薔薇の名前をつけたかどうかは知らない。でも『タイタニック』ディレクターズカット版では、アメリカへ渡ったローズが後に女優になっている。シンクロしているのは間違いない。そのローズが恋に落ちた白馬の騎士、白いキャンバスを抱えて旅する貧しい青年の名前はジャックだ。



「ジャック」は、カードでトリックスターを意味しているあたり、ブラック・ジャックとの共通点も見出せそう、、。という流れで手塚治虫を連想し、存在すら知らなかった『奇子』を紹介され、生まれて初めてこれを読んだ。そして、改めて発見の多さに驚いた。幼い少女が「ピュアな内面を保持したまま艶っぽい美女」に変貌するのは「メルモ」だし、心と顔に傷を負った男が、険しいアウトローの道を歩むところは「ブラック・ジャック」の元ネタと言ってもいい。



主人公が「売れない画家」と「女優の卵」というのは、歌や映画の世界に限らず、小説や漫画でもよくある設定かもしれない。しかし、『タイタニック』はもっと本質的な部分において、日本の有名アニメのいくつかに似ている。だから、日本人にとってなじみやすく、他の各国と比べて異常に人気が高く、興行的にも突出して稼がせていただいた。ただし、それは成果から捉えた主因であって、出発時からあった市場戦略ではない。『タイタニック』が誕生しなければならなかった「なぜ」については、このブログを書き出す以前から、仮説を立てつつ考えていた。



継承する 宮崎駿安彦良和庵野秀明



例えば『タイタニック』と「フランダースの犬」の悲劇的終局で、同じ賛美歌が使われるのは偶然としてあり得るのかどうか。同一性を認識していない可能性はあるだろう。死に直面した荘厳な状況を演出する上で、宗教的な音楽の中から歌詞も踏まえてベストなものをチョイスしたら、結果的にそうなったというパターンだ。では、巨大艦船の舳先にラナが立つという『未来少年コナン』のシーンではどうか。



少女は何かの生贄にされているという暗示に見える。『タイタニック』のローズは、旧家の破産を逃れるために好きでもない成金男との、自由を奪われた結婚生活を余儀なくされていた。彼女はまさしくスケープゴートであった。偶然か否か舳先に立って、ナウシカのように手を広げ飛び立つポーズをとる、支えられている様は天空へ舞い上がるシータのようだ。設定は少しずつ違えど、クラリスの『ルパン三世 カリオストロの城』も似たような展開だ。さらに言えば、『ふしぎの海のナディア』( 監督;庵野秀明)、『クラッシャージョウ』(劇場版/監督;安彦良和)も囚われの美少女が鍵となってドラマ進行する。



そして、ひとつの「神話」に行きついた



さて、『機動戦士ガンダム』と『奇子』は長編なので、どこにポイントを置くかで、見方、見え方は相当異なってしまう。しかし、その深層、本質部分においては同根だ。ア・バオア・クー(怪物の住む塔の意)からセイラを導き出し、土蔵(古い因習)の中から奇子を救い出すというのは、象徴的には「英雄がお姫様を助け出す物語」の部類に入る。これを「アンドロメダ型神話」と言う。同様の話はギリシャだけではなく、世界の各地に分散している。『STAR WARS』しかり、『Roman Holiday』しかり。古代大和では「ヤマタノオロチスサノオノミコト(とクシナダ姫)」が該当する。



すなわち、似ているのは大元の大元の伝説・哲学であって、たかだか十数年内の並列記録の因果だけではない。キャメロンが日本のアニメを部分的に真似たとしても、それ自体に大きな問題はない、手塚も宮崎も、海外の映画をさんざん真似ているのだから。そもそも、昔話と呼ばれる文化資産は総じて紀元前神話からの流用だし、宗教的説話からの引用だ。問題なのは模倣ではなく、時世に合わせた発展的継承となり得ているか否かである。それをうかがい知ることなく、意味を理解せず、難産の上の大ヒット初期作を、表層のみテンプレート化して飾り立てたとしても、作品としておもしろくなるわけがない。そのような、シンの継承者足らない凡庸制作者の劣化コピーシリーズに、ビジネス上の権利保護を与えるのはあまりにタンニンだ。




 ひさかたの つきのひかりの きよければ 


 てらしぬきけり 唐(から)も大和も 昔も今も うそもまことも


  良寛




夢を閉ざされたローズは、始め暗く沈んでいた。だが何色にも染まらず、清らかな心持ちのジャックに照らされ浮き上がり、見栄と欲望と金権力の、どす黒い威容を誇るタイタニック号から解放された。バラの色も、光の当て方によって、眩しく白く輝くこともあれば、漆黒の支配を受けることもある。時々で見る印象は違っても、時代により、場所により、物質や自然や人の中身が変わっている訳ではない。



過去の偉人たちが研鑽し、遺してくれた伝承には智慧が詰まっていた。色・光・闇・空・天下、それらの相反するものも、すべては表裏一体とみなす悟りである。抗いきれない災難に直面した時や、希望を失いかけた時にこそ役立つ優しさだ。








 久方の 月の光の 清ければ


 照らしぬきけり ゴジラもヤマトも セブンもエヴァも アムロもアトムも

















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戦艦の論 THE SEVEN V「私も連れてって。どろぼうはまだ出来ないけど、きっと覚えます。」








【 手塚 治虫 】 『 奇 (あやこ) 子 』




ブラックなジャック と ふしぎなメルモ のあいだに




このブログの読者の方に『奇子』をお勧めいただいた。



 _ 以下引用


友達に勧めたことはありますが、中々理解してもらえなかったですね。笑

奇子もそうですけど、手塚治虫の作品では、設定の裏側に疑いをおき、深層に迫って人間の欲深さや非道さを明るみにしていきます。

誰しもが普通に暮らしていても、必ず心中に闇を持っている事を知らしめられている気がします。

手塚のダークな作品に共通しているのは、普遍と狂気は紙一重だという隠されたメッセージ性だと思いました。
ごく普通の日常生活を送っていても、狂気は常に真後ろにいて、己を監視している。
その出番が来るのを常に見計らい、ほんの一瞬、些細な出来事で普遍の糸が切れるとたちまち襲い掛かってくる。

誰でも狂気への入り口の一歩手前で、張り詰めた細い普遍の糸の上に立ちながら、何食わぬ顔で日常を過ごしている。

異常は客観視であって、当人にとってはそれが正常。

色んな観点を探せば観方は変わってくる、みたいな事を教えてくれた作品ですね。


 _ 引用おわり(以下は著者)


手塚は適当に話を盛ることなく、実際に起こった事件を挿入しながら、現実に起こりうる展開を、極めてリアルに描写しているという特徴があります。それは、安直なヒーローやヒロイン設定に対する挑戦であり、ありふれた正義や愛の言葉への、疑いの目がそうさせています。「体裁を整え、努力すれば報われると思うのは幻想だ。実際はそんなことはなく、社会は不平等に満ちている」思い切り反対側(暗黒面)へ振れることで、人間の逞しさと弱さ、真実の絆を浮き彫りにし、表現の限界を追求したかったのだと思います。





小学館の『ビッグコミック』に連載された手塚治虫の異色漫画で、発表時期は『ふしぎなメルモ』と『ブラック・ジャック』の間に当たる。「あさま山荘事件」、「日本列島改造論」、『仁義なき戦い』の時代であった。物語は戦後事件史から始まり、当時の世相を切り取りながら、地方の大地主一族と抑圧を受ける使用人たち、思想・価値観の変化・対立と、無垢な女性のかわいらしさとエロスを描いた、陰鬱で艶麗な作品である。



少女監禁事件 と 民進党



タイトルとなった『奇子』は幼い少女であったが、身内の犯罪を隠蔽するために土蔵に監禁されたまま青春期を過ごす。その姉(義姉)は民進党かぶれの恋人を殺されている。それに加担したのが復員兵の兄「天外仁朗」(次男)で、事実上の主人公である。仁朗は、陰謀によって人生を狂わされたため、偽名を名乗って裏社会でのし上がり、奇子へ定期的に多額の金を送り続けている。暗闇の中で美少女に成長し、やがて蝶のように解き放たれた奇子の前に、ある青年が現れる。しかし、偶然にも仁朗を追う立場の存在だった、、。





芹沢博士(『ゴジラ』)のように黒い眼帯を付け、マイケル・スコフィールド(『プリズン・ブレイク』)のようにクールで坊主頭の仁朗。尋常ならざる高度な能力で、怪物や国家の陰謀勢力とひとり闘う。だが、血を分けた妹には意外に優しい一面を見せる。さて、上の挿入画像と構図のそっくりなシーンが『宇宙戦争 WAR OF THE WORLDS 』にある。自身の無力を感じている父親トムが、地下の暗い階段の下で、さめざめと泣いている娘を慰撫するシーンだ。理解できるようで理解できない、もっとも謎な場面だった。けれど、スピルバーグが観客を置き去りにしてでも、これを撮りたかったのだと思うと納得する。人物の位置、カメラの角度、絶望的な心理状態、これほど印象に残るセッションを他では見たことはない、果たして偶然の一致なのだろうか。





待ち合わせも紹介もなく道端で遭遇し、突然尋問を始めても絵になる金髪イケメンと挙動不審なワンレン美少女。登場人物たちの異常性愛の描写も魅力のひとつと思うが、エログロを薄め複雑な相関図の中心にいる天外仁朗をある人物になぞらえると、『奇子』はモビルスーツの出てこないガンダムになる。



 「ここから地球に脱出するくらいの金塊を残していく」


 「私はもう、お前の知っている兄さんではない」


 「マスクをしている訳がわかるな」


 「私は過去を捨てたのだよ」




 黒い眼帯の仁朗 → 赤い彗星のシャア 
陰謀に巻き込まれ偽名とマスクで顔を隠す。
戦争で手柄を立てのし上がる。幼い頃離別したセイラに金塊を送る。


 天外奇子(妹) → セイラ
天性の美少女。不遇なお姫様。兄(シャア)を想っている。


 天外作右衛門(父) → デギン公王
ザビ家の当主。シャアの父暗殺の首謀者。


 天外市郎(兄) → ギレン総帥
戦争継続のためデギン公王を抹殺する。


 天外すえ → アストライア
魅惑的な美しさの持ち主。シャアとセイラの母親で幽閉されている。


 天外志子 → ハモン
アストライアと仲が良い。幼いセイラたちをザビ家から守る。
背伸びしているが、人としての常識と一途な想い(恋の恨み)がある。


 天外伺朗(弟) → アムロ
道理に合わない命令には決して従わず、妙に理屈っぽい。でも悩み多し。
ア・バオア・クーに閉じ込められていたセイラを救い出す。


 江野正(民進党員) → ガルマ
個人的な恨みはないものの友人シャアに謀殺される。
エノは今の民進党にもいそうな名前だ。


 キャノン少佐(キャノン機関/雇い主) → キシリア少将(キシリア機関)
国際的黒幕。シャアの運命に大きく関わる。
シャアとホワイトベース周辺に複数の諜報員を送り込む。
キャノンのパイロットに出会って寝返る女スパイも。






恭謙!! 恭謙!! 先見 予見



ガンダムの世界観作りに貢献し、世のテレビマンガの概念を変革した富野由悠季安彦良和は、ともに虫プロ出身である。ガンダム企画前に連載されていた恩師の漫画を読んでいないわけがなく、その人物設定に影響がないとは絶対言えない。シャアを主人公にした『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』は、複雑な人間模様を、政治を絡めてダイナミックに描いたことで評価されているが、『奇子』を下敷きにしなければ、あそこまで高い創造性は発揮出来なかっただろう。



ロリコン伯爵、火傷すっぞ



小さな窓ひとつしかない牢屋に閉じ込められ、欲望まみれのゲス野郎の監視下にある奇子は、逃げられるようになってからも(物理的に)、逃げられなかった(心理的に)。その「なぜ」は、ラナ(「未来少年コナン」)、クラリス(『ルパン三世 カリオストロの城』)、シータ(『天空の城ラピュタ』)を通し、くり返し問い続けられてきた。





ひさかたのひかりのどけきはるの日に、奇子はさくらを見ることができるだろうか。もし、心身が追い詰められているなら、どうやってか弱き心を助けだしたらいいのであろうか。





















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