戦艦の論 THE SEVEN XXI「映画の世界は、架空の英雄であふれている。_Mel Gibson」







【銃閉症】『ハクソー・リッジ』評 - part2




 衝撃の真実、右翼も左翼も賞賛し誹謗した



沖縄戦で貫いた、反戦の魂 「ハクソー・リッジメル・ギブソン監督
http://www.asahi.com/articles/DA3S12991162.html
(有料ページ)

ハクソー・リッジ 沖縄戦、人間の弱さ描く
https://mainichi.jp/articles/20170623/dde/012/070/011000c


武器持たぬ米衛生兵は“恐ろしい日本兵”も救助した−壮絶な沖縄戦の真実描く米大作「ハクソー・リッジ
http://www.sankei.com/west/news/170629/wst1706290007-n1.html


沖縄戦を描いた映画『ハクソー・リッジ』が“沖縄”を隠して宣伝…背景にはネトウヨの“反日”攻撃への恐怖
http://lite-ra.com/2017/06/post-3276.html


人間が一線を超える瞬間を捉えた“戦争映画”
http://realsound.jp/movie/2017/07/post-88439.html


ハクソー・リッジ』はなぜ炎上? 語られざる“沖縄戦”の真実と闇
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170818-00010000-cyzoz-soci





『ハクソー・罹ッジ』とは、戦争的映画拒否者へ配慮し良心的戦争映画のフリをした、反戦的映画拒否者も納得の実戦的映画である。しかしながら、銃携帯を拒否して戦闘に参加することになる、青年デズモンド・ドスの描き方はとても丁寧で、話題を集めた激しいアクションは全部カットして、ドラマパートだけを抽出しても、宗教や人間性を絡めた奥深いテーマ設定になっており、最低でも二回観る価値がある。アカデミー編集賞を獲得したことで証明できるように、テンポよく進むライフストーリーは、無駄なくわかり易く引き込まれる。タイトルにある「リッジ」は断崖という意味で、映画のイントロと後半だけでなく、山あり谷あり崖ありの、デズモンド人生の転機には必ず出てきて、その断崖が単に戦闘の行われた「前田高地」(参考/http://www.okinawa-senshi.com/maeda-new.htm)のみを意味しているのではないことがわかる。



 良心的兵役拒否憲法で認められている



ところで、前回(part1)「戦争を否定するようなワードは一切ない」と断言してしまったが、それに近い台詞はあったかも知れない。例えば、昼間から飲んだくれの父親は、「あいつも、あいつも皆んな殺されてしまった」と、戦争をディスることしか知らないし、母親の「戦争に行く前はいい人だった」の言葉も、直接的ではないにしろ反戦ワードの一種だ。でも戦争反対派筆頭の父親からして、捨ててなかった古い軍服をひっぱりだし、過去の戦功をダシにして、有罪宣告寸前の息子を救い戦地に送り出している。その時の法廷演説が秀逸で「憲法を守るために戦うのが戦争だ」と言い放ち、見下した態度をとる将兵たちを黙らせている、言い分が平河町護憲派と反比例なのがおもしろい。ともあれ前半部の反戦モードは、これで丸ごと裏返されることになる。反戦主張らしきものは「銃を持たない」主人公に残るのみだが、彼は戦争自体には目立って反対していない。医療の道を閉ざされ工場で働く彼にとって、怪我人の手当てのために戦場に赴くことは、むしろ願ってもないことだった。



軍の規律を乱す存在は、軍隊を嫌いな人たちからすると頼もしい味方に見える。これが高学歴左翼にウケる理由だろう、「世の中の人間すべてが銃を持たなければ戦争がなくなる教」を信じているユートピアンにとって希望の星だ。思想表現のデモンストレーションとして「銃を持たない」とすれば、訓練所の教官をこれほどないがしろにする行為はない。ストレートな挑発として、受けて立つのが軍事教育の指導者として当然の役割であった。連帯責任を取らされる同僚の恨みを買うのももっともなことで、集団暴行を受けるのは必然だ。先立って喧嘩を売り、事態が悪化する前に膿を出そうとした兵舎のいじめっ子大将は、それほど悪役ではない。仮になんらかの事情があるにせよ、周囲に迷惑をかける前に目立たないよう解決する、大人としての対処がありそうなものだ。



 出る杭は打たれる



一つ飛び出てしまった釘頭は、白い目で見られても、便所掃除をやらされても、顔を叩かれても、くじけないどころか心を一層強固にしていった(これは、崖の上の奮闘に通じる)。幾度説得を受けても絶壁のごとく拒み続け、紊乱は訓練所全体の士気に影響を及ぼすレベルに達した。思いやりから逃げ道も用意されているにもかかわらず、なぜそうしているのか。周りは「へたれだから」とみなしただろうが、実のところ本人にはわからなかった。人権への配意を知っている上官たちですら、猶予ならない事態ととらえ彼を逮捕・拘留する。そのため当人の結婚式にすら行けなかった。晴れ舞台を台無しにされたにも関わらず、健気にも会いに来てくれた新婦が、「銃を持っても撃つ必要はない」と真っ当なアドバイスをしてもラチがあかなった。「プライドのせいだ」と指摘されると、表情を硬くして目を逸らした。



デズモンドは「銃を持つべきではない」とは言っていない、「持たない」信仰を広めようとも思ってない、ただ一人、銃に関する訓練を受けないだけだ。銃を持たずとも戦場へ行き傷ついた兵士を救いたい、彼の解釈は以上で、市民運動家が好きな「ためにする抵抗」ではない。持たない理由はシンプルだし何度も説明している、他の人が持つかどうかまでは言及していないのに、主義変更を強要されるのは受け入れ難いと感じている。でもそこは「空気を読め」というのが、アメリカであれ日本であれ北朝鮮であれ、軍隊であれ学校であれ労働党であれ、集団社会の常識というものだ。それが「できない」のなら世間からの退場もやむを得ない、命令違反という罪を負って「収監」されるか「精神病院」に送り込まれるか「銃殺刑」に処されるかだけだ。損になることはわかっていても決めたことを曲げられない、それがデズモンドという人間の気質なのだった。



面従腹背」という言葉がある、うわべは権力者におもねるが、見られていないところで反抗的な態度をとる、または考えていること_。“腹背”が出来ない人は稀にいる。良かれ悪しかれ、生活していく上で必要とされる使い分けだが、この能力がないため、投獄されるか処刑された人は古今東西少なくない。例えば近代日本の指導者を育てた「吉田松蔭」はその典型だ。藩に盾突きテロ計画を展開し、黙っていればいいものを、捕縛されてからも幕府を痛烈に批判したため斬首された。真正直というよりは、周りに災いするほどの天性のバカだ。鋼鉄の断崖をよじ登るようにして、米露の戦艦に許可なく乗艦しようとするなど、当時はもちろん現代の常識に照らし合わせても理解不能な男だ。しかし彼なく維新は成らなかったので、より大きな社会全体から見ると進歩に欠かせない有益な人物と捉えることができる。



 世界一の臆病者が、英雄になった



のキャッチコピーを通して映画鑑賞を決めた人は、結果が分かっているので一途な主人公を応援できるが、親父大活躍の起訴取り下げパートまで、客観的に彼を支持する理由は見当たらない。親の反対を押し切って入隊したにもかかわらず、軍の命令に従わないとなれば、同情の余地はなく除隊では済まない、刑務所送りになったとしても自業自得だ。これほど妥協を知らないピュアでわがままな青年を、擁護しなければならない理由なんてあるのか、、。「出る杭は打たれる」とか「出過ぎた真似」という慣用句があるように、他と違う行動を取られることに腹を立て抑えつける人がいる。それが一部であればいいのだが、杭が打たれる状況では、たいてい雰囲気に流され周りも叩く側に付く。そして、皆が横並びになって、歩調を合わせられるようにしたことで、圧力をかけた人らは「とてもいいことをした」と思っている。だが、生物・人類の歴史が証明するように、性能・志向が同一の均質集団が存続したことなどない。



強者もいれば弱者もいて、知能に秀でた者も、そうでない者も共に助け合い、弱者も時に全体貢献する機会を与えられる集団のみが生き残ってきた。一つの物差しで採用された者だけそばに置き、聞きたくないことは聞かないリーダーの率いる集団は、例えばブラック企業のように一時勢力を誇っても、多様な人(特定因子)に対しての想像力と応用力が育つことなく、いずれ淘汰されるようになっている。出た杭の中には、叩いても叩いてもへこまない、沈まない、落ち込まないものがある。それによって、やがてまわりの杭が何かに気づき、備え、社会変化や大災害などの障崖を乗り越え、躍進を続けることになる。世界的大企業ですら危機事態への対応が遅ければ、数年で抹消されてしまう超スピード時代にあって、経済界、産業界ではそのようなイノべーターの存在をかつてより評価し必要としている。



後から気づいたことだが、この映画の裏主題は「おまいら健康な社会生活者が、いかにヒーローとなる大人物を小者扱いし、日常の中で見過ごしているか」という事実の突きつけにあると思う。大勢の名のない英雄と不運な参戦者の犠牲の上に、今の世界がなりたっているという忘れがちな真理を、アル中老兵の声を借りて伝えていた。



戦争を遠い世界の出来事のまま、近づけてはいけないと願うなら、真実に迫って寝た子を起こす必要はない。真実を追求するのは非戦争状態でも、時として同じ何かが起こり得る、あるいは起こっていて直視する必要がある、と監督が考えているからだ。軍が舞台になっているので、いい話として記事にするなら反戦しかないという、評論家の軽々しさも含めて、そのような観念論者に対しアンチテーゼをぶつけているようにしか見えない。反戦映画というよりは「反嘘くさい映画」で、反戦を貫くならここまでリアルを描き切ってみろとでもいいたげだ。





『薄層・リッジ』では、いい国も悪い国もなく、悪い人もいない、主人公はやっつけるのではなく、ひたすら救う。ハラキリ、日の丸がなければ対戦相手は朝鮮人ベトナム人に見えるし、歴史知識のない人が鑑賞した際には、別に戦場はどこだってよいストーリーになっている。降伏すると見せかけて肉弾テロを敢行する卑怯な手口で、主人公らを追い詰める敵は恐ろしいが極悪非道というほどでもない。そもそも、さとうきび畑を踏み荒らし住処を奪い民間人を殺戮しているのは主にアメリカ軍だ(日本軍もな)。家族を守るために手段を選ばず闘う勇敢な男たちを、悪人設定できないことは制作側も知っている。



本筋のいじめ役である自軍、返り討ちに合ったアメリカ側も冷静に見て理不尽な対応は取っていない、戦艦の怒号に怯まない日本兵が強すぎるのであって、参謀本部の作戦が前線軽視なわけではない。オキナワを取り上げたのは、朝日新聞の歓心を買うためではなく戦線離脱地だったからで、英雄的活躍を見せるなら実際デズモンドが赴任したグアムでもレイテでもよかった話だ。後半は戦闘一色となるが、ほのぼのした純愛編を含め全体を貫く主張がある。それは、同調圧力に屈せずブレない、曲げない、諦めない心情への理解要求だ。信念や信仰ではなく、もっとプリミティブな感情要素が、この主人公を支配しているとみる。詳細は次回に譲る。



がんじがらめの規制渦巻く、旧態システムの納得いかないプレッシャーに対して、孤立した主人公デズモンド・ドスは、激しく静かで時に暴発的で、人を寄せつけない断崖のような対抗姿勢をみせた。同様の風骨は軍隊組織以外の業界や団体や企業でも確認できる、例えば、大友組の大友や、角界貴乃花親方や、ハリウッド界のメル・ギブソンが見せた気概のように。







 part3に続く。