戦艦の論 THE SEVEN XIX「東北で、あっちの方だったから良かった。」








初めて読む人のための「戦艦の論 」(1)
「シンクロニズム 戦艦の論」〜 過去の投稿を振り返って〜




 プロフィール



連載が始まって、かれこれ五年が経過する。



当ブログ(weblog) の本来の目的はイラストの掲載であったため、その絵画に添えるキャプションとして「戦艦の論」はスタートした。「戦艦」のワードを用いたのは、当時公開されていた映画のタイトルが、たまたま反映されたからであって、戦艦オタクのための戦艦論を書きたかったからではない。
 → http://d.hatena.ne.jp/BRIDGET/20160731/1469968481 (「アンドロメダ級 2番艦」)より



実際の内容は、以下の文章に爆縮されている。



「戦艦の論」とは、ウルトラセブンと、宇宙戦艦ヤマトと、機動戦士ガンダムと、新世紀エヴァンゲリオンを、フジヤマと、ハラキリと、ゲイシャと、フクシマに、相互連関させ、思いつき順に綴った戦いの研究であり、それ自体に最強の武装を施した論である。
 → http://d.hatena.ne.jp/BRIDGET/20130630/1372600877 ( 「政策綱領 一」)より



ウルトラ〜、宇宙戦艦〜、機動戦士〜、新世紀〜。



先に続く言葉が、一つとして思い当たらない人には、理解するのに疲れる「戦艦の論」である。私人の素朴な感想を発展的に展開する「この論」では、具体的にはセブン、ヤマト、ガンダムエヴァを中心とした著作物の類似点と相違点を探っている。ちなみにこの四作品の共通項は、(どのように→)多岐にわたる優れた才能が集まって、(どこで→)日本で生み出され、(どんな→)SFジャンルに属し、(だれに→)少年少女から青年が好み、(どのくらい→)テレビ放送時か映画化時に空前の大ブームを巻き起こし、(何をした→)大正生まれのおじいちゃんがその名を覚えるほど社会現象化したこと、そして、いずれも(何が→)「空飛ぶ戦艦 / ウルトラホーク1号、ヤマト、ホワイトベース、AAAヴンダー」が登場することだ。



ここで言う「戦 艦」とは、最も強大な攻撃力と最も強固な防御力と最も長大な機動力とを兼ね備えた、有人施設のことである。なお、外観については特に限定せず、水上艦艇のみを言い表す訳ではない。
 → http://d.hatena.ne.jp/BRIDGET/20121025/1351105973 (「0(LOVE)と幻想のシンクロニズム 3」)より



シンクロするエッセンスと、相反するおもしろさと、何度見直しても不可解な展開とに意味を与える名作へのアプローチテーマとして、フジヤマ、ハラキリ、ゲイシャ、フクシマ を絡めて論述している。フジヤマは戦闘組織の「基地所在」を、ハラキリは登場人物による「決死行動」を、ゲイシャは「萌えヒロイン」の原点を、フクシマは「滅亡危機」への遭遇を、それぞれ表象している。研究題目をカテゴリー分類する時のキーワードとしても重宝するこれらは、オタク人気獲得のための「特撮・アニメ」四要件とみなすことができる。



英表記でも伝達可能な FUJIYAMA とか HARAKIRI は、近世から現代における、我が国を代表する独自的文化である。「絶景富士山」、「武士といえば腹切」、「新橋・赤坂・神楽坂芸者」、「みちのく東北福島原発」、老若男女・学歴有無に関わりなく誰でも連想できる観念で、日本人であれば説明できないことは恥ずかしいトラディショナルワードだ。これらを横糸とするならば、縦糸に相当するセブン、ヤマト、ガンダムエヴァは、たかだか半世紀の間に生成・消費された、一抹の娯楽作品キャラクターである。クールジャパンと政府主導でもてはやされても、明確に認識している海外の知識人は一部にとどまる。



しかし、国内ではファンの期待に応えて繰り返し再放送され、当該キャラクターを主役として幾度もリブートされている。世代間に抜け漏れなく続くシリーズが、FUKUSHIMA とか GEISYA を織り交ぜながら21世紀以降に生まれた子や孫たちのマインドに及ぼす撹拌と、その結果、東西南北離島の隅々にまで至る国民思想への編みこみは、もはや誰の手にも止められない。世界中に伝播し継承され得る著作権の交換・継続価値もけっして低くはない。



 昔、空母機動部隊。今、空母打撃群



比喩で用いた「最強の武装」とは、ときどき使うアサルトなレトリックである。既存の共有知識を中抜きして煙幕を張り、ターゲットに気付かれることなく忍び寄って逃げ道を塞ぎ、貫通弾の一撃により抵抗する間もなく屈服させる術である。この効果を見せつけることで、疚しさを秘めた髪型のおかしい太っちょで引きこもりの独裁的暴力者を牽制しつつ、自陣営の共謀に関してはスルーさせるのに役立っている。例えばこんな感じに表現する、、



以下(「政策綱領 三」)より
 → http://d.hatena.ne.jp/BRIDGET/20130713/1373709599


オフィスアカデミーの西崎義展は、宇宙戦艦ヤマトの原案を修正し、テレビ総督府に放送継続を訴える。しかし、インテリジェンスに欠ける下参謀は、無礼にもこの企画書を握りつぶした。

「今さら何を言うか! こげなもの持って来よる暇に、視聴者の数字取ってまいれ!」


日本サンライズは恭順嘆願の使者として、おもちゃ屋と親しかった、創通エージェンシーをテレビ総督府に放っていた。制作局長との談判を求めるが、取り次ぎにあたった営業部係長は意味が理解できず、集団で企画変更を加え、その後放送を打ち切りにした。

「この賊徒めが! 売れないロボットに金を使わせるとは、不届き千万!」


__再録は以上



あのヤマトもガンダムも、期待されていたが当初はヒットしなかった。これはオールドファン周知の有名な事実だ。むしろリリース時は数字的には惨敗扱いで冷遇されていた。従来のテレビ漫画とはまったく違う世界観だったから子供はついていけなかったし、子供番組を卒業した中・高生の大部分は存在に気づかなかった。その後の熱狂と讃美から遡って考えると甚だしい温度差がそこにある。視聴者がうかがうことのできない制作サイドでは、いったい、どのような悶着があったのだろう。



想像はけっして難しくない。どこの組織にもいる「権力を持った無能力者」の功罪が伺えるということだ。周りの職人たちからすると若干迷惑な内外管理職との軋轢だ。そいつは、自分が間違っているとは寸分も疑わずに、いつでも偉そうにマウントを取ろうとする。言ってることはだいたい「木を見て森を見ない」ようなことだ。センスがないから微妙に異なる表現を区別できない。たまたま聞きかじった方法論がまぐれ当たりすると、馬鹿の一つ覚えで同じことしか主張しなくなる。質問をするのはイライラしているときだけで、わからないことは見ないふりをして押し通す。



ただし、暴力で抑圧された時代でも社会でもなくなっていたので、虐げられた側にも反撃の機会は与えられる。体制の要求を受け入れつつも、こっそりどこかでやりたい表現を通せばいいのだ。屈服し難い能力判定を受けた場合は、その凄まじいまでの怨念が創造の原動力になる。このエネルギーが映像キャラクターに憑依してプラス転換されたとき、作り手さえ予想しないヒット現象に結びつく。このように、悔しさに鍛えられて放送クール後半に深みが増したという類例は、枚挙にいとまがない。一方で、権力を持った「一つ覚えの馬鹿」に潤沢な資金と勘違いな褒め言葉を与えられたら、クリエイティブは磨こうにも磨きようがない。資本所有者からの侮りを跳ね返したヤマトとガンダムが、シリーズを追うごとにつまらなくなったのはそのせいだ。



 受け身の武装



ネットの言説というものは、とかく言葉尻のみを捉えられ、いきなり後ろからズボンを下げられがちだ。そのような曲解対策として、ここでは本当に言いたいことは意図的にぼやかしたり、含みを多くしたりして防御壁を築いている。また、いくつかの章にまたがって文脈を形成しており、速読は不能で模範的な日本語表現にもなっていない、したがって特定部分の著述のみ抜き取って晒しても、読解を諦めた人からは反感すら持ってもらえない。



不寛容で過干渉な揚げ足取りの勇ましくて軽はずみな挑発くらいは、独自の邀撃システムによって自動反撃する。反論されるようなことは、別なところで無難な正論を明記しておく、その上で反対者を焚きつけて弁証法を展開すれば、タンニンな意見はむしろ直掩機の燃料として利用できる。仮説として、「ガンダム主人公の名前 “アムロ” は、鉄腕 “アトム” から来ている」と推論し公に披露したとする、やがて多発的にツッコミ長距離弾が打ち上がる。「記録にない」、あるいは「記録と違う」という指摘は正しい。ネット上で調べる限り “アムロ” の由来については、「零式艦上戦闘機」の開発コード説(『A6M』)が支持されているようだ。しかし、正解は一つとは限らない。公式記録の記載が誘導されている場合もあり、取り上げられた関係者の証言だけが的を射ているわけではない。



とある事象における世の中の関心の高さと、所説、諸説、俗説、屁理屈、ツッコミ、またそれをめぐる懇談、議論、論争、痛論の多さはだいたい比例関係にある。ウルトラマンスター・ウォーズは、研究本や専門ブログなどで、その設定矛盾や撮影ミスが多数指摘されている。だからといって価値の低いコンテンツだと思う人はいない、本当にダメなものは誰からも茶々の入らない、記憶にとどまらない作品である。ゴジラターミネーターも、何億人か何十億人かが鑑賞しており、さらにそのうちの何千万人かは二回以上見ている。シリーズを通して、配慮に欠ける言説や差別表現がないとは言えない、それに気付かれるリスクも少なくない。





また帰ってくる『ターミネーター2 3D』ベイビーに銃を向ける




 銃 座



事柄と内実の関係性、表現と認識の相互作用は、個人の成長や社会(時代)の進化によって変化(止揚)する。腑に落としたネーミング理由や、理解していたつもりのエピソードの裏に、もっと深いテーマがあるかもしれない。思いつきとは言え、別の角度から眺めることによる発見は多い。フジヤマ、ハラキリ、ゲイシャ、フクシマ は一種の方便だが、俯瞰的、網羅的に捉える指針となる。ここでは「文化を大切に」、「人の命を粗末にしたらいけない」、「女性を売り物にするのは下品だ」、「被災者の気持ちを考えて」などという、いつでもどこかで誰かが訴えている解りきったことは言わない。それら正論の影で見落とされている視点にこそ照準を合わせている。



グローバルレベルで価値ある特異な創作物であっても、アイディアや着想にはいずれもヒントやルーツがある。何もない真っ白なところから、ひとりの天才(または異常者であっても)によって過去に類例のない変異が生じることは稀だ。世紀の傑作と謳われる『2001年宇宙の旅』の、類人猿が突如人類に進化する斬新シークエンスは、漫画「鉄腕アトム」のある回(「一億年前の犯罪の巻」)にアイディアをいただいているし、その回とて三本足の円盤が登場するなど『宇宙戦争』を始原とする、種々の空想科学小説群に影響を受けている。一方スピルバーグ版『宇宙戦争 WAR OF THE WORLDS 』では、宇宙人(ロボ)が地面の中にずっと埋まっていたというくだりがあり、それは「鉄腕アトム」(「一億年前の犯罪の巻」)に類似シーンを見つけることができる。





液体のように姿を変え地面に吸い込まれる宇宙人


「恐竜戦車」や「タイムメカブトン」の原型のようなロボも登場



こういった文化的遺伝、相伝、ループの裏づけのために、連綿とその背景を遡りシンクロニズムを展開している。「未知の知的生命体が、天変地異を起こして人類を圧倒する」エピソードを最初に思いついたのは誰かと、その始祖著作権利者を探りだしたら、最終的に行き着くところは、合理主義の餌食となった神話と宗教の界隈になるであろう。








初めて読む人のための「戦艦の論 」(2)
「花魁と白虎隊」 〜 著者来歴 〜




  娘艦隊道中



私はアニメ県埼玉在住で東京都心に通う会社員である。進学のために上京して、アパートの次に決めたのは、特急「富士」終着駅での清掃バイトだった。皇室専用地下のシャンデリア通路で、何日かゴミ箱を引きづり回していた。同僚の半分が中国人だったのは今と変わらない気もするが、ゴミの九割以上がタバコの吸殻だったのは隔世の感がある。時世は変わるものだ。大学ではバブル時代になお残存していた左翼サークルで唯物論哲学を教えてもらった。そして昭和天皇の見舞い記帳をした際は、サークルの先輩から白い目で見られた。




巨大地下空間のあったところは第四形態の墓場となった


今は、その駅近くの飲食店に勤めるが、かつては広告と映画の世界にいた。年齢は、放送開始より50周年を迎える「ウルトラセブン」と同じである。中学の2年生頃、ハリウッド映画の大ブーム期が来ていた。特に話題になったのが『E.T.』だ。反抗心が旺盛だったので、何も知らないくせに有名すぎるスピルバーグは嫌いだった。20年後、期せずして『E.T. 特別版』イベントを手がけることになる。皇族のつてを通し自ら切り込んで、かの眞子内親王を試写会に招くに至り、結果として他のスピルバーグ作品にも多く関わるようになった。ガンダムに夢中だった思春期は食わず嫌いだったが、今ではもっとも尊敬する監督のうちの一人になった。




世の中の仕組みを分かっておらず、そのせいでうまく行った(同じやり方はもう通用しない)



私の出身地は新潟県燕市分水地区(旧町名「地蔵堂」)である。清貧の僧にして歌人で書家の「良寛」ゆかりの地であり、桜の季節の「おいらん道中」でも有名だ。現役の水上戦艦が役目を終えて、仮想現実の中に新たな舞台を見つけた「艦娘」のように、ひらかな表記される「おいらん」も元々の意味からだいぶ変わってきた。かむろ(下働の童女/アムロみたい)や新造(見習い女郎/新造戦艦みたい)を従えて堂々行進する様は、駆逐艦巡洋艦を率いた戦艦のような迫力がある。



「戦艦の論」なので比較してみた。狭義の戦艦という意味では現役就航しているものは一艦もない → 役に立たないから(打撃戦でミサイルに負ける)。花魁も就業者は一人として現存していない → 法律で禁止されたから(明治の芸娼妓解放令)。イメージの更新作業により、わが故郷にも県外客やインバウンドが増えている。ありがたいことである。ところで、花街として栄えていたこの地は、江戸吉原のような花魁のいた規模の街ではない。米どころにして信濃川水運の恩恵で潤っていた中程度の田舎町だ。




信濃川の治水記念に植えられた桜並木で有名


突き当りの寺は地蔵堂の由来となった願王閣、左の家屋が良寛少年時代の下宿先


公選されたミスが江戸と佐渡を結ぶ街道の旧宿場を練り歩く



 ファミリーヒストリー



私のDNAの四分の一は芸者から受け継いでいる。祖母「安達ハナ」は、戦前(第二次大戦)には亡くなっているが、街では著名な名妓にして家付き娘であった。「家付き娘」とは望んで実家の芸者になった子女で、貧しく売られてきた娘と違ってそれなりの人格権と発言権をもち、芸磨きに専念し下働きだけをしないでよかった。それゆえ、街の料飲組合上げての「おいらんプロジェクト」立ち上げに、中心的に参加していたと考えるのが自然だ。



世界中探しても、身売り女性を主役に見世物とする日中行列などニッポンにしかなかろう。厳密で硬直した身分制度の一方で、大衆支持という、権力に対する抜け道であるところの文化的権威がそこに座していた。江戸時代の風俗を復活させて、90年以上続けてきた地蔵堂という街もまた尋常でない。「本来の意味を知っているのですか」という上から目線のありがたいご指摘、冷笑、侮慢意見など軽くいなせる風土が地元にはあったのかもしれない。ハナは、その初期における推定功労者である、と「戦艦の論」くらいは明記しておきたい。時は、「花子とアン」の時代だった。



→ http://d.hatena.ne.jp/BRIDGET/20160508 (「アンドロメダ級 1番艦」)参照
「花」と「アンヌ」のシンクロは偶然とし、「テム・レイ博士」の由来は「手塚治虫」だったと紹介した。 



ハナの先祖は福島の武家で、地蔵堂に移ってからの実家は寺子屋から置屋(今でいう芸能事務所)に鞍替えして財をなしていたらしい(儲けのためもあるかもしれないが、学ぶこともできない娘に芸を身につけさせ、自立させるためだったとの解釈も親族の中にある)。ただ、くり返し大火に見舞われ、物的な記録は家紋しか残っていない。



この地域は、幕末に会津の領地があり、戊辰戦争では前線基地が置かれ新政府側に付いた与板藩と対峙した(与板は直江兼続の居城として知られる。最後の藩主は大老井伊直弼の四男である)。地蔵堂には戦後(戊辰)、会津藩の兵士が住みついて子供に学問を教えたという史実があり、会津藩に自分と同苗字(安達)の武家(白虎隊員にも)が存在するが縁は不明だ。ハナの妹(父の叔母)も芸者の道を歩み、白虎隊の町「会津東山」で人生を全うした。




外国の目から見た芸者像(『Memoirs Of A Geisha』)



 アートワーク



改めて「芸者」とは何か。いわゆる外国人の知っているゲイシャは、着物を着た厚化粧の女であり、ゆったりとした動作で男に酒を進めるイメージであろう。おしとやかで従順な日本女性の象徴としての言葉である反面、何か怪しげなムードを持っている。「遊女」と混同されることが多いが、定義は異なる。派手な装飾で、見た目から人気のある「花魁」も似たようなイメージを持たれてる。この気位の高い娼婦を、お姫様の一種と思っている人もいるだろう。



「花魁(おいらん)ってお姫様のことではないのですか?」
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1132219796



駅前の繁華街では石を投げれば姫に当たる、オタサーの女子とかキャバ嬢とか。それにナンバーワン風俗嬢を姫と呼ぶんだから、花魁も姫ってことで合ってますよね(国内に血統正しきプリンセスは数人しかいないはずだが、、)。



方や、歌って踊れる芸者(芸妓)あるいは舞妓(舞子)は、現代のダンサーやアイドルや女優のようなもので、あからさまには性を売り物にしない。とはいえ、スターとアーティストとモデルとショーガールとコンパニオンとセクシータレントとホステスとキャストとの境目はあってないようなもので、どこにポジショニングするか、それは時代が変わっても個別の事情によりけりだった。



 歌麿に描かれ、


 先進世界の芸術家たちを魅了した「花魁」とは、


 最も高額な商品力と


 最も広範な教養と


 最も妖艶なカリスマとを兼ね備えた、


 花にたとえられる女性のことである。


 なお、身分については特に限定せず、


 上級遊女のみを言い表す訳ではない。





 高嶺の花にささぐ



腹切、切腹、割腹、詰め腹、自決。武士の思想の体現とも言える言葉である。アメージングな日本のかつての儀式制度であり、芸者とともに異文化理解の中心に位置付けられる特異的な概念と言えるだろう。「福島」は、地域を表す言葉であると同時に、原発事故後の諸問題を包括している。偶然だが震災の一週間前に私は福島城跡(現県庁)を観光していた。何か血筋が呼び寄せるものがあったのだろうか。県庁職員がなんとものんびりしていたのが印象的だった。



標高日本一の「富士山」は、姿かたちの美しい地形的な名所であるだけでなく、信仰を集め国民精神のシンボルともなっている。、、BATTLESHIP や OIRAN など、ミリタリーパワーや風俗営業の頂に君臨したそれぞれの言葉は、メジャーではあるが、またはメジャーすぎるがゆえに、人によって見下ろしたり、見上げたり、まったく階層の異なる感慨を抱くという点で、振れ幅の大きい特別な観念に属している。




 駿河なる ふじの高嶺は いかづちの 音する雲の うえにこそみれ


  賀茂 真淵