戦艦の論 THE SEVEN IX「こんなこともあろうかと。(真田さん) 」





〜 2012-05-07 の投稿「イスカンダル・エクスプレス」を振り返って〜
 → http://d.hatena.ne.jp/BRIDGET/20120507/1336333331


桁違いな経済格差を持つ敵勢力の断続的な攻撃に抗い、大航海の間、限られた補給のみで遂には艦隊決戦にも生き延びる。という神話の主は、宇宙戦艦「ヤマト」である、、。このような出だしの「シンクロニズム 戦艦の論」の連載が始まって、かれこれ四年が経過する。



当ブログの本来の目的はイラストの掲載であったため、その絵画に添えるキャプションとして「戦艦の論」はスタートした。「戦艦」のワードを用いたのは、当時公開されていた映画のタイトルが、たまたま反映されたからであって、戦艦オタクのための戦艦論を書きたかったからではない。とはいえ、大戦後に実在を失ったバトルシップという言葉が、これだけ普遍的に用いられているというのも特異な現象である。このことには改めて気づかされた。



 城と戦艦 



戦艦の先輩にあたる言葉に「城」がある。戦国時代の前半までは、「戦い」(守り)のためにしか存在しなかったが、大名の勝敗優劣が明らかになり、天下統一が決定的となるにつれ、それは無益に争わないための、権威の象徴に存在を変えていった。安土城大阪城江戸城は、特にその性格が強い。



同様に、大戦直前に建造計画された超弩級戦艦も、できれば戦わなくて済むよう、戦闘回避の願いや恒久平和の思想を反映して、莫大な国家予算と人的労力がかけられたのであった。残念ながら、威圧運用を主目的としていたので、数値上の攻撃力・防御力のみに注力し、捨て身で肉薄してくる、機動力のある敵との戦闘はあまり想定していなかった。



「城」は平面での防御には強いが、海上の「戦艦」が大砲を撃ち込めば逃げようがない。その戦艦は、大砲からは逃げ回ることができるが、航空機が空から爆弾を投下すれば防ぎようがない。過去のノウハウは、科学の進歩によって容易に陳腐化する。このように、実践の世界は、より急激に言葉の意味内容が変わる。にもかかわらず、城も戦艦も死語化せずに生き残っている。その趣味のおじいちゃんしか知らない、ということにならないのはなぜなのか。



沈没した戦艦は宇宙へ飛び立つし、西南戦争の「熊本城」は九州大地震からの復興のシンボルになろうとしている。また、戦国時代に終わりを告げた、城というより砦か船かという名称の「真田丸」は、夏の観光の目玉となっている。いずれも戦争の目的は霧散して、娯楽と経済と商売の旗印となっている。現代に至るまで使っている言葉が必ずしも、その本質を言いあらわさない好例と言えるだろう。



さて、真田さんの開発した数々の新兵器が地球の未来を救う神話について語っていたはずが、大きく振れたブログの回がある。論調がアニメか映画に興味ない人には、理解できないようになっていたので、たまには一般の人にも読んでもらおうとしたものである。かなり思い入れて書いているので、再度、画像などを追加して掲載することにした(最後のオチを復活させる意味もある)。→ http://d.hatena.ne.jp/BRIDGET/20140716/1405501142






【補完再録】PROJECT IZUMO 1 [夏休み 課題えらびは 芭蕉かな]





 
 「銀 河 の 序」


  北陸道に行脚して、越後の国「出雲崎」といふ所に泊まる

  彼佐渡がしまは、海の面十八里、滄波を隔て、東西三十五里に、よこおりふしたり

  みねの嶮難の隈隈まで、さすがに手にとるばかり、あざやかに見わたさる

  むべ此嶋は、こがね(黄金)おほく出て、あまねく世の宝となれば、

  限りなき目出度島にて侍るを、大罪朝敵のたぐひ、遠流せらるるによりて、

  ただおそろしき名の聞こえあるも、本意なき事におもひて、

  窓押開きて、暫時の旅愁をいたはらんむとするほど、

  日既に海に沈で、月ほのくらく、銀河半天にかかりて、星きらきらと冴たるに、

  沖のかたより、波の音しばしばはこびて、たましいけづるがごとく、腸ちぎれて、

  そぞろにかなしびきたれば、草の枕も定らず、

  墨の袂なにゆへとはなくて、しぼるばかりになむ侍る



 あ ら 海 や 佐 渡 に 横 た ふ あ ま の 川





1689年七夕。松尾芭蕉は、新潟県本土側中央部の海縁に位置する出雲崎町で、あまねく世の宝となる一句を詠んだ。むべ此地は、純国産朱鷺の絶滅地である大佐渡の山々が、きらきらキラーと冴えたる波面の向こうで、手に届くように、あざやかに見わたさる風光明媚な田舎町である。







幕府直轄領であったが、北越戦争では官軍に抵抗せず、中越地震でも大きな建物被害はなかったので、北国街道に沿って昔ながらの妻入り長屋が残っている。北方には角上魚類で有名な寺泊があり、越後一ノ宮のご神体「弥彦山」がそびえる。街道の西寄り終点には、最古の尼瀬油田と、獄門の遺跡があり、さらに目を遠くにやれば、おそろしき名の聞こえあるも、本意なき柏崎刈羽原発と、沖のかたよりうっすら能登半島も視認できる。


奥義という言葉にも使われる「おくのほそ道」の「おく」は、おじいさんが芝刈りに行った山奥などの所在状況を表現したものではなく、特定の地所を指す言葉であると解釈できる。その地域とは、同じ語を含む奥州、今の東北地方のことだ。「大和」朝廷の支配が遠く及ばない、最果ての地を「道の奥」と定め、それが訛って「みちのく」という言葉に変化し、東北六県を演歌調に表す形で残っている。



 都と朱雀



北の「細道」と対照的なのが、天皇がおわす宮城の、門から南にまっすぐ広がる「朱雀大路」だ。そのブロードウェイを往来する都人の常識の中で、越後はかろうじて見聞きできる越国(こしのくに)の最背面にあり、蝦夷の民との混住地域、または領有権争いの最前線であった。そんな不安定な土地から、さらに海を渡らなければ到達できない孤立地が佐渡島である。


彼の地は当時考え得る、内国でもっとも遠い地であったので、島流しとしては最上級に厳しい、過酷な流刑地として認識されていた。流された人には、時の最高権力者の不評を買った政治家や、高名な思想家や、有能な芸術家も多かった。ところで室町、戦国と、時代を経るに従い、越後は開墾され未開の地ではなくなった。そればかりか、佐渡では金山が発見されて、未曾有の経済大発展を遂げていた。芭蕉が行脚した江戸時代に、金運搬船の荷揚げ地となった出雲崎は、罪人送りの殺伐とした雰囲気を失い、人々が集まりバブルムードが漂っていたに違いない。




武家政権に逆らった天皇が、知らない土地に流されて、怨念を募らせたことなど、遠い昔の出来事を思い起こしてみた。世の中がひっくり返るような大事件もたくさんあった。今、こうして自然に抱かれ、遥か遠くで悠然とまたたく銀河を眺めていると、いかに人間というものは、小さなことで騒々しく波立って、大きく変わらない存在というものを忘れているだろう、と考えてしまう。あの天の川が架け橋となって、無実の魂が還ってこれたらいいのに。」



 わび と 玄



これは実際、紀行文である。各地の名所旧跡を取り上げ、素朴に感じ取った感動を「わび」の概念に凝縮している。「侘び」とは、アンチ・ブロードバンド・システムのようなもので、侘助が開発したLOVEマシーンの対極にある。より速くなく、より新しくなく、より大容量でないが、ほのかに美しい性能、と言えば伝わるだろうか。


それなりに知られた地を行き先に選ぶことで、読み手の興味を引き出し、分かりやすさの手助けにしたかもしれない、しかし、東北観光ガイドとしてだけ書かれた訳ではない。潤沢な資金を持たず、年老いてフクシマ、平泉、多賀城へ向かった目的は、そこで起こった、悲しい出来事、人知を圧倒する自然の風化力、権力交代によって忘れられた土地、これらを直に肌で受け取り、その背景に故事と叙情をシンクロさせて、文章表現することにあった。


朱雀大路の朱雀とは対になる、北を司る神獣のことを玄武という。北極星の方角を意味した「玄」には、空間・時間を超越した哲理を含み、玄人という言葉にも用いられている。その、いわゆるプロフェッショナルを装いたい素人が、最も嫌いなものは遠回りの細道だ。


せかせかと結果を出すことに追われ、誰もがすでに忘れかけているが、今年前半は、その偽装事例については大収穫があったので、メディアも嬉々として糾弾の大路を突っ走った。一方、真のプロは近道探しなどに興味はない、彼らは多くの脇道に入っては「行き止まって戻る」を、何度も何度も繰り返し、人の知らない道を歩んだ副産物として、ようやく「その道のプロ」と言われるようになる。


「目先の大路」が、作曲家や夕刊紙やワイドショーの大衆煽動テクニック、秒速で稼ぎたい地方の議員やブロガーやイベント会社のハウツー、科学論文執筆者や三流雑誌や戦艦の論のコピペ慣習、であるとすれば、「奥の細道」とは、険しく長く暗い道の中で喘いでいる人の、さしあたりの脱出手引書である。


政治的恩恵の行き届かない地方に分け入り、生活現場の目線に迫り、時代状況に即した規範を規律に加えるための、新たな歴史解釈の試みであったかもしれない。そして、幕府つぶやき本でも朝廷エッセイ集でも政府広報誌でもない、片道覚悟の命がけの軌跡にして、時を超えて奥(未来の意)の日本人へ贈る、漂泊の思想書でもあった。




 「あら海や 佐渡に横たふ あまの川」




太平洋や東シナ海でも「天の川は横たう」。人工の光が周辺にないときは、夜空のそれは美しいに違いない。だが日本海(Japan Sea)で、しかも、その先に佐渡がなければ、絶対にこの深みとロマンチシズムは生まれない。


「荒海」。夏の日本海は総じて凪いでいるので、天候のよい星明りの海辺で、波頭は高く上がらない。そうは言っても聞こえるリズミカルな波の音が、それ以外の雑音をかき消してくれ、深夜の海は一層神秘的だ。うわさに聞く玄冬の荒海を、「はらわたがちぎれるほど」荒々しい自身の心情になぞらえ、夏の海に重ねてみたのではないだろうか。


「奥」の手。奥座敷の秘湯を、裕福な老夫婦に紹介する旅番組や、野や山にひっそり咲く花の、奥ゆかしさに触れたJR東日本のポスターなんかで、安直に添えられる機会が多い芭蕉の句。


「道」。交通路のほかに、都を中心にした五畿七道(北海道を入れると八道)の行政区画としての意味や、哲学・宗教としての意味も付随している。だとすれば、宇宙へ想いを馳せた芭蕉は、細い道で何を暗示したのであろうか。











【補完再録】PROJECT IZUMO 2[ジェロ と 海雪] 




 あなた追って出雲崎、悲しみの日本海


 愛を見失い岸壁の上


 落ちる涙は積もることのない、まるで海雪



海雪 ジェロ 歌詞情報 - goo 音楽



なんで「あなたを追った先」が出雲崎なんだ? 地元の人はそう考える、確かに浜焼きがうれしい露店や名所も数あるが、全国的知名度に乏しいことはよく知っている。夏場限りの民宿はあれど、観光ホテルはないといってもいい。越後線出雲崎駅は日中、ラッセル車以外の車両を見ることは出来ない。かつて、組織票を使って、良寛様の聖地を県の景勝百選のNo.1に推した町民が一番驚いたに違いない。





強いて考えられるとすれば、関東から車を飛ばして最も早く来られる日本海出雲崎にあるということだ。冬の日本海はいつ見ても「モノクロで、重く、切ない」、暗く沈んだ気持ちを、より劇的に盛り上げてくれる絶好の舞台になる。けれど、出雲崎は身を投げられるような高い岸壁はなく、漁港がある以外は砂浜が続く比較的平凡な海岸だ。件のヒットクリエーターは、見たことも行ったこともないそこに、天の川ではなく金脈が横たわっていることを、抜群の嗅覚で嗅ぎ取った。



 イズモとヤマト



反対の見方をすると、日本海から江戸に超高速参勤交代するには出雲崎が適当だ、そのため佐渡で産出された御用金はここで陸揚げされた。また、遥か昔、まだ蝦夷の民が、アルプス山脈で遮られた東日本に幅広く生活していたころ、新天地を求めて北に移動して行った「出雲の民」の、海からの初上陸地が、その名、残りの出雲崎だったと思われる。


文字が大陸から伝達される以前の歴史なので、推測するしかないが、進んだ稲作文化や祭祀文化を東北にもたらしたのは、彼らだったようだ。少なくとも、「大和の民」が近畿を経て東海、関東を掌握し、その勢いを持って越後山脈を乗り越え根をおろした訳ではない。むしろ逆だ。関東を支配する豪族は、越後から南下して坂東武士の起源となった。したがって、大和から見て武蔵は弟でも孫でもない、系統的には別の国家観を持って発達した、異なる文明とその子孫たちであった。いずれ反乱が起こるのは自明の理だ。



出雲崎は、海路と陸路の交わる要衝であり、

出雲と蝦夷の、列島内民族の出会いの地であり、

大陸を隔てたゴスペルと演歌の、奇跡の交錯点でもあった。










【補完再録】PROJECT IZUMO 3[佐渡 と 新見氏] 




承久の乱

1221年の鎌倉時代、朝廷が幕府に対して起こした反乱。
敗北した順徳上皇佐渡島に遠流された。


・新見氏

上記乱の後、新見庄(岡山県西北部)の地頭として土着した武家


・出雲計画、バレラス遷都計画


 『宇宙戦艦ヤマト2199


地球人を蛮族扱いする帝政宇宙人勢力との激闘の末、

ついに天の川銀河の外縁部にまで到達したヤマトの艦内食堂では、

連戦に一息つけた記念に「天の川ランチ」の提供を開始した。

そんな折にも反乱の萌芽は、敵の中にも味方の中にも潜伏していた。


佐渡酒造
(艦内ドクター/新潟出身)
人情論のアナログ対応チューナー

VS

新見女史
(艦内カウンセラー/京都出身)
データ分析のスペシャル・アプリケーション



JR伯備線新見駅」に停車する下り方面の特急は、すべて出雲市駅行きである、、。
いつか、語られるかもしれない第12話「その果てにあるもの」へつづく。











http://yamato2202.net
脚本 福井 晴敏


 





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