シンクロニズム 戦艦の論 6 - 10 「その時は冗談口調だったが、今はもう本気でつぶれたらいいと思う。」







〜 十年目の『宇宙戦争』検証 〜  



いま試される、二つのワールド


2005年6月29日水曜日、全世界同時に『宇宙戦争 WAR OF THE WORLDS 』が公開された。製作が発表されてから一年も経たず、撮影期間こそ長かったものの、あっという間に編集されて、気がつけばプレビューされていた。スピルバーグ製作総指揮で現在公開中の『ジュラシック・ワールド』が、企画決定から10年以上経ってることと比べると、相当に早いペースで制作進行した。


映画といっても経済原則に逆らえないビジネスである以上、企画から市場に流通させて資金回収するまでにかかる期間は、短ければ短いほどいい。しかし原作権を取得してから、脚本・キャスティング・本撮影と、様々な工程を経て、より良いものを仕上げるためには時間がかかる、注目企画であれば、なおさら調整日程が必要だ。これがスムーズに行ったのは、スピルバーグの力量によるものである。


末端のスタッフから経営陣に至るまで、彼の方針に異を唱える者などいるわけがなく、マーケティング戦略上、「主人公は天才パイロットで」とか、「誰かの代わりに特攻する」とか、「反戦メッセージを入れた方がいい」とかの、終戦記念日特別ドラマにありがちな、退屈な意見が逆流してくる余地などなかった。


すべては作家性のもとに、その持てる資源を結集し、歴史的小説に恥じない結果を残すべく、ただただ本編製作に全精力が注がれた。したがって、各国で『宇宙戦争』宣伝に関わる者は、完成されたプリントを見ることなく、その出来栄えを信じきり、部分的にもたらされる映像内容を拡大解釈し、ドラマを想像しながら世に広めて行った。(完成版を見ていない者が宣伝することが、問題でないとは言わない)


ところで、方々でイチャモンをつけられた『ウォー・オブ・ザ・ワールズ』は、ラインナップ発表時の邦題より、「ワールド」が「宇宙」に拡大翻訳されたまま変わらずだが、『ジュラシック・ワールド』の公式タイトルは『ジュラシック・パーク4』だったので、原題もろとも「パーク」がなびいて「ワールド」に拡張している。さらに8月5日、異例の“水曜日”公開は『宇宙戦争 WAR OF THE WORLDS 』に同じ。当初「2006年」公開を想定していたことからストロークの長さがわかる。ちなみになんら情報のない中、適当にリリース文を書かされていたのが私だ。










 「君のコメントに感謝するよ」3
 

 ----- いま試される、愛と勇気 ----- 


 人類は最凶の異星人と遭遇します。

 しかしながら、その姿はスティーブン・スピルバーグ監督の意向により

 公開までその姿を現わすことはありません。






「公開までその姿を現わさない」とはどういうことか。

映画宣伝は、ロードショー前にポイントとなるキービジュアルを出回らせ、それによって世間の関心を高め、映画館へ足を運ぶ人の動機付けをする。しかし、それでは映画館で初めて遭遇する体験の衝撃度が半減するとして、『宇宙戦争 WAR OF THE WORLDS 』では、恐ろしい「たこ宇宙人の姿を余す所なく完全に秘匿せよ」と厳に命じられていた。「主催者が意図した公開まで、勝手に公開されないこと」。それは簡単にできそうで、実は相当に難しい作業であった。


いま試される、需要と供給


2005年は、第1次安倍内閣によって「映画盗撮防止法」が制定される二年前である。「NO MORE 映画泥棒!」は存在せず、著作権尊重意識は一般に浸透していなかった。事実上スクリーンでの盗撮は野放しだった時代に、監督の意向を遵守するためには、映画会社は戦略的に防衛するしかない。武道館で予定されていた「ワールド・プレミア」が、直前に中止になったのはそのためだ。


公開前の試写会は、出入り口が限られる会場に限定された。そして、スクリーン横に警備員を置き、金属探知機による身体チェックを全員に行った。すべての携帯電話・カメラ類を取り上げたのは、日本では『宇宙戦争 WAR OF THE WORLDS 』が最初だろう。さらなる徹底ぶりは、入場者に誓約書のサインを求め、文字による内容説明すら公開前は禁止されたことだった。


すなわち、スピルバーグに「試され」たのは、『宇宙戦争』を取り巻く映画体制そのものだった。


試写会名簿に登録された者の内、主要メディア、例えば、朝日新聞や日テレや小学館の営業絡みの担当者は、その制約に対し驚くほど素直に従った。しかし、編集局に依頼を受ける映画評論家や契約ライターは、そういう訳にはいかなかった。一般に公開されてからの批評文は、金銭的に意味がないからだ。逆に、ネットの映画ライターが台頭している中、少しでも早い情報提供は、自分の商品価値を高めることになる。


では、明文化されたルールを破って、「表現の自由」を行使した者がいたかといえば、一人もいなかった。禁止事項(ネタばらし)に逸脱した際のペナルティーで、その名を名簿から削除されることは、飯種を失うに等しい。この「言外の圧力」を映画業界で初めて顕示したのが、所属の宣伝部(配給会社)であった。これに対し当然反発はあり、結果としての逆宣伝が、悪評を生む下地になったことは否めない。


反発と言っても、実際のところ自由を脅かすとかいう大それたことではなく、メディアの威を借る執筆者の矮小なプライドが傷つけられたため、びっくりして大騒ぎしていただけだ。彼ら自身が普段より人を見下しているため、変化事態への耐性が育っておらず、見下されそうになる気配を敏感に察知して、業務命令を遂行する宣伝部員ではなく、当該映画を攻撃対象としたに過ぎない。



産院は鑑定の下請けではない  


かつて映画は、選ばれた一部の人によって産み出され、娯楽に飢えた人々の元へ、ありがたく届けられていた。やがて、過去の作品がストックされ、二次三次利用が増大するとともに、他業種参入で新作の製作機会も増え、作品自体の流通量が絶対的に拡大する。映画よりも、選択肢を持っている観客の方が偉い、という世の中になっていった。


顧客のニーズに合うことが、映画製作にも必要だという需供の論理が成立し、それは一見では正しいように見えたが、工業規格品ではなく、文化的要素をはらむ性格上、単純適用できなかった。大手映画会社は、芸術的完成度の高い映画を作る一方で、わかりやすい大衆作品をシリーズで連作し、適度に稼ぐことでうまくバランスを取っていた。


バランスが崩れて、大衆迎合作品ばかり産まれるようになってから久しい。外資シネコンによる名画座駆逐も、もはや終わってしまった出来事だ。ヤマト、ガンダムが、古くて頭の固い製作体制を穿ち、クールジャパンの萌芽を育んだまでは喜んでいられたが、バブル崩壊で回転資金に余裕のなくなった会社は、目先の利益獲得のために、多産多死を繰り返した。


十年後に評価されるような作品など考えていたら、製作幹部たち自身の生活が危うくなる。助産するはずの映画誌も同様に、広告欲しさもあって、テレビドラマ・スタイルの、分かり易い映画を中心に宣伝していた。そうこうしているうちに、映画鑑定がネットの点数評価に置き換わり、硬派な批評家は食を失い、思想的に後退し、放送作家が作ったように、解釈の余地が永遠の0な、中身スカスカ作品ばかりになった。


このタイミングに来て、受け手の理解を要求する、内容の濃い『宇宙戦争 WAR OF THE WORLDS 』が良くも悪くも話題になる。過剰な秘密主義のせいだ。そしてネットの下でうごめく刺激惹起性多能性獲得生物によって、今でいう炎上状態になった。一種の逆流マーケティングだが、狙って煽っていた訳ではない。クレーム対策に追われて、主催者にそんな余裕はなかった。


いま試される、タテマエとホンネ


それはそうと、広告文の「愛と勇気」は、一体どこから持ってきたのだろうか、、。娘を守るために父は隣人を殺害し、息子は無敵の蛸マシーンに無謀な戦いを挑む。そこから「愛と勇気」を読み取らせるには無理がある。相応しい中心テーマは、「情と正義」のようなわかりやすい建前ではなく、「試され」ていたのは、極限時の「父性と本能」だったはずだ。


その背景には、

「再会と別離」

「デマと真実」

「遭難と救助」

「不信と狂気」

「生存と駆逐」

「進撃と抵抗」

「感染と免疫」があり、

「世界戦争」というよりは「世帯戦争」であり、
最終勝利者は「宇宙人」でも「軍隊」でも「政治家」でもなく、冒頭にこけおろされていたバクテリアだった。


顕微鏡の下でうごめく単細胞生物、権力を持たない一介の労務者、踏まれることに耐性を備えている草莽が、結局はしぶとく生き残るのだ、という結論は、『タクシードライバー』における「トラヴィスの勝利」、『七人の侍』における「百姓の勝利」、『サマーウォーズ』における「陣内家の勝利」、になんだか似ている。


そこまで探求する心の準備もなく、フラッと「感動と興奮」を求めてデートに使った初々しいカップルには、申し訳ない気持ちでいっぱいだが、少なくとも注目のイベントムービーにはなった。同じ夏に公開された『スター・ウォーズ エピソード3 /シスの復讐』に先にじて。














 




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