シンクロニズム 戦艦の論 6 - 11 「わたしはものをぱくるということをしたことはいっさいありまー、せん。」







〜 二回目の『白紙撤回』検証 〜  



 試された、二つのエンブレム 1 『八月の狂詩曲


...一学期最後の7月24日金曜日、2020年に開催される『東京五輪』&『パラリンピック』エンブレムが華々しく発表された。しかし、公開されてから夏休みを経て、9月の始業を待たず、原案修正期間こそ長かったものの、あっという間に総叩きに合って、気がつけば白紙にされていた。政府総指揮で現在練り直し中の『新国立競技場』が、計画決定から2年以上経ってることと比べると、相当に早いペースで撤回進行した。


イベント商標の図案化といっても経済原則に逆らえないビジネスである以上、企画から市場に流通させて資金回収するまでにかかる期間は、短ければ短いほどいい。しかし意匠登録を申請してから、根回し・協賛獲得・本展開と、様々な工程を経て、より高い収益を上げるためには時間がかかる、注目企画であれば、なおさら調整日程が必要だ。これが、少なくとも発表されるまでスムーズに行ったのは、組織委員会の力量によるものである。


末端の委託請負業者から大スポンサーに至るまで、彼らの方針に異を唱える者などいるわけがなく、マーケティング戦略上、「子供から老人にまで愛されて」とか、「独創的であって」とか、「日本らしさを入れた方がいい」とかの、ネットの声にありがちな、耳障りな意見が逆流してくる余地などなかった。


すべては砂脳のもとに、その持てる検索技術を結集し、歴史的事業に恥じない結果を残すべく、ただただ表面加工に全精力が注がれた。したがって、全国でオリンピック運営に関わる者は、完成されたエンブレムを見ることなく、その出来栄えを信じきり、部分的にもたらされるキャッチフレーズを拡大解釈し、引用画像を組み合わせながら世に広める準備を行った。(完成版を見ていない者が宣伝することが、問題でないとは言わない)


ところで、方々でイチャモンをつけられた『有頂戦争 Mr.DESIGN』は、東京国際映画祭アートディレクションも手掛けており、2014年のポスターが現役映画業界人に「最低だ」「恥ずかしい」と、総反発されたまま変わらずだが、上から目線の公式ポスターは「黒澤 明」だったので、トンチンカンな英訳コピーもろとも「映画素人」がなびいて「国際的無教養」に拡張している。さらに、2013年に出版した著書「7日でできる思考のダイエット 〜お金がない、時間がない、じゃあ、どうするか〜」で、思索ストロークの短さがわかる。ちなみに渦中の狭脳に関する知識のない中、偶然にも映画祭ポスターの記事を書いていたのが私だ。



http://d.hatena.ne.jp/BRIDGET/20141110
東京国際映画祭のポスターに起用されたことで、各方面で話題になっており〜”
(言葉は濁してあるが、「各方面」とはネットの袋叩きのことだった)










 試された、二つのエンブレム 2 『天国と地獄』
 


 ----- いま試される、象徴と理念 ----- 


 

 世界は、2020年に東京でひとつのTEAMになる歓びを体験
 
 その和の力の象徴としてこのエンブレムは生まれました

 すべての色が集まることで生まれる黒は、ダイバーシティ

 すべてを包む大きな円は、ひとつになったインクルーシブな世界を

 そしてその原動力となるひとりひとりの赤いハートの鼓動

 オリンピックとパラリンピックのエンブレムは

 同じ理念で構成されてい ...







「和の力の象徴」とはどういうことか。


公共事業の意匠PRは、開催前にポイントとなる国内メディアによいしょさせ、それによって世間の好感を集め、一部の違和感については権力をもって封殺する。その力の及ばない西洋人のツイッターではどうすることもできないが、恐ろしい「和風おでんの具は、煮えきらぬうちにすくっておけ」と厳に命じていた。しかし、だいこん汁のしみだしは簡単に抑えられそうで、実は大やけどをともなう致命的な現象であった。まとめニュースで初めて遭遇する政府要人から、遺憾の意が表明されるのは時間の問題だった。


2015年は、東京でオリンピックが開催される五年前である。いまだに開催が危ぶまれているリオ・デ・ジャネイロより四年も余裕がある。「NO MORE ロゴ泥棒!」は存在せず、著作権尊重意識はエンブレムにまで浸透していなかった。事実上無名デザイナーの盗用は野放しだった時代に、IOCの意向を遵守するためには、組織委員会は戦略的に防衛するしかない。砂王で決行されていたパクリンピックが、一ヶ月あまりで中止になったのはそのためだ。


二回目の公募は一斉に間口を広げて、審査過程もオープンに説明される手はずになっている。そして、選考作品の法的スクリーニングは徹底的に行われるだろう。応募者には、瑕疵があった場合「損害賠償請求に応じる」との誓約書にサインを求め、文字による内容説明すら公開前は禁止されるに違いない。



意匠を取り巻く利権体制



デザイナー名簿に登録された者の内、主要事業組織、例えば電通博報堂ADK所属の社員デザイナーは、その制約に対し驚くほど素直に従うだろう。しかし個人デザイン事務所や、その依頼を受ける孫請け契約デザイナーは、そういう訳にはいかない。一般に公開されてからの著作権は自分の所有にならず、「損害負担だけせよ」と言われたら金銭的リスクに耐えられないからだ。さらに、画像検索技術が台頭している中、少しでも似ている意匠の存在は、自らのデザイナー生命を抹殺することになる。


では、明文化されたルールを守って「応募の自由」を行使しないかといえば、そんなこともない。衆人環視の中、この後に及んで出来レースが行われる可能性はない、普段なら門前払いの無冠デザイナーにも大いなるチャンスが巡ってくる。逆に大手代理店は、ただでさえ利権の存在が疑われているので、横車がバレた際の騒動で、その名を行政に記憶されることだけは避けたい。この「言外の圧力」を広告業界で初めて顕示したのが、東京オリンピックパラリンピック競技大会組織委員会(公益財団法人)であった。これに対し当然反発は予想でき、結果としてのオープン審査が、調整作業の難航につながらないとも限らない。


反発と言っても、実際のところ「経済損失が国民生活に重くのしかかる」とかいう大それたことはなく、東京都の異常支出を除けば、営利企業の先行投資金額の回収が不可能となるだけである。彼ら自身が、普段より国家の先行投資を独占しているため、閉塞事態への耐性が育っておらず、損害賠償請求されそうになる気配を敏感に察知して、支払い請求を実行する印刷会社に対する目くらましで、組織委(税金で成り立っている団体)に責任誘導する程度のことだ。



黒澤はADの便利ツールではない  



東京国際映画祭のポスターは、選ばれた『受注戦争 Mr.DESIGN』によって産み出され、映画文化に疎い人々の元へ、ありがたく届けられるはずだった。日々の生活に困窮している映画業界人よりも、表現選択肢を持っている優雅なデザイナーの方が偉い、という世の中になっていたからだ。そして、過去の模倣がストックされ、二次三次引用が増大するとともに、グーグル参入で剽窃の露見機会も増え、疑惑作の流通量が絶対的に拡大すると、その中に10月開催「東京国際映画祭」のロゴが含まれていることが発覚する。


「黒澤が権力におもねる発言を許可するわけねーだろ」という、その監督作品いずれかを見ていたら、絶対ないというコピーとともに、いったい誰が、ただの一般人に製作発注したのか、かつて内情に関与したものとして気になるところだ。それでも『普通戦争 Mr.DESIGN』が芸術本質を軽んじる一方で、こだわりの怪物黒澤という虎の威を借り、「7日でできる簡単ダイエット」を実現したかった気持ちはわからないではない。しかしながら、痩身サプリのキャッチフレーズではなく、一部公金を使いながら、日本文化に口を挟む性格上、自前のノウハウを安直適用してはならなかった。


専門家にだけ評価されるような映画祭など考えていたら、映画製作の環境自体が危うくなる。依頼されたアートディレクターも同様に、クライアントの意向に則って、分かり易いイベントをモットーに宣伝していた。そうこうしているうちに、フェイスブックの反発が沸き起こり、良識ある映画ファンは上っ面な表現を嘆いたが、自慢げなツイートが削除され、それ以上話題になることなく映画祭は終了したので、問題の火種をくすぶらせたまま放置された。


ネットの炎上など大したことはない、という「免疫」が出来上がっていた、このタイミングに来て燃焼性の高いパクリ事案に飛び火する。過剰な自信による脇の甘さのせいだ。そしてネットの下でうごめく刺激惹起性多能性獲得生物によって、WAR OF THE WORLDS 規模の大炎上状態になった。弁明するほど油を注ぎ、収集つかなくなったのは周知の事実だ。今考えれば去年あの時、名前が晒されて徹底的に叩かれていれば、当事者を含めて誰も実害に合わなかったのに、、。


飛ぶ鳥を落としていた寵児の人気バランスが崩れて、詐悩個人ばかり叩かれるようになってから久しい。サントリー多摩美日本オリンピック委員会のホームページからの駆逐も、もはや終わってしまった出来事だ。砂糖かしわが、苦くて固い商業プロダクトを穿ち、スタイリッシュの萌芽を育んだまでは喜んでいられたが、パクリバブル崩壊で弁解に余裕のなくなった『憂中戦争 Mr.DESIGN』は、目先の利権保持のために、逃亡遁走を繰り返した。







 試された、二つのエンブレム 3 『どん底



それはそうと、広告文の「すべてとひとつ」は、一体どこから持ってきたのだろうか、、。保身のためにトップクリエイターは部下を売り渡し、組織委はネット世論に無謀な戦いを挑む。そこから「和と円」を読み取らせるには無理がある。相応しい中心テーマは、「力とハート」のようなわかりやすい建前ではなく、「試され」ていたのは、極限時の「組織とフリーランサー」だったはずだ。


その背景には、

「無能と虚勢」

「批難と擁護」

「尊大と嫌悪」

「予算と計画」

「業績と不信」

「強要と抵抗」

「体面と内幕」があり、

「デザイン問題」というよりは「テイサイ問題」であり、
最終勝利者は「佐野研二郎氏」でも「組織委員会」でも「IOC」でもなく、批判やバッシングを繰り返したネット民だった。


顕微鏡の下でうごめく単細胞生物、権力を持たない一介のネットユーザー、踏まれることに耐性を備えている草莽が、結局はしぶとく生き残るのだ、という結論は、『ランボー』における「ジョン・ランボーの勝利」、『レオン』における「マチルダの勝利」、『AKIRA』における「金田の勝利」、になんだか似ている。と、いうと大げさになる。


しかし、そこまで警戒する心の準備もなく、報酬か名誉を求めて知り合いの審査員に媚を売った夫婦には、申し訳ない気持ちでいっぱいだが、少なくとも注目のムーブメントにはなった。同じ夏に動員された大規模人数詐称『安保法案反対集会』に先にじて。


















 




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