シン・クロニズム 映画の論 0 - 3 「科学の進歩は、実際の2001年に起こりうるよりも遥かに進んでいるように思われる。」





__ 文化の日ゴジラの日、まんがの日 記念 __

 浜野助教授(1951 - 2014) インタビュー

11/3は、一作目「ゴジラ」封切日にして手塚治虫の誕生日でもあった。





ライコスムービー「特撮」特集  



1 進化のペシミズムとキューブリックの戦略



―1968年に公開された『2001年宇宙の旅』という映画は、当時としては確かに革新的なものだった訳ですけど、それ以前より日本でも似た様な映画は作られていました。それを「キューブリック」が参考にしていたという記録もあるのに、日本人は足元を評価していません。そのような独自的文化がすでに日本で育っていた事実や、キューブリックの狙いについて感じることはありますか?



(浜野氏) アメリカは50年代に冷戦があったから、なんとなく漠然とした不安感みたいなものをSFで描いているわけですよね、どこかから宇宙人が来たとか。それが基本的にはアンリアリスティックに描いているんですね。ただ、直接的にソ連を悪者に描くとか、核ミサイルが飛んでくるというのは、あまりにリアリティーがありすぎて、アメリカでは受け付けないんですね。宇宙人が来たとか、宇宙に行ったときに人間が襲われるとか、ホラー映画だとか、みんな人々が洗脳されてしまうとかね、そういう映画がたくさん作られたんだが、そんなに当たらなかった。時代の機運を反映していたわけだけど、明日がどうなるかわからないというのがあって、非常に間接的に不安感が表現されていたんだ。



だけど日本は唯一の被爆国だから、非常にストレートに描いてるのね、『宇宙大戦争』(東宝/1959)だとか「フランキー堺」の『世界大戦争』(東宝/1961)だとか。あんな直接的な、「もう死ぬから一緒にみんな飯を食おう」っていうね、すごくリアルな、地球がだめになっちゃうっていう、すごくリアルな部分で表現をやっていて、なおかつ『ゴジラ』(東宝/1954)という“世界的な傑作”を生むわけですよ。アメリカはそういう意味で、SFものでは1つも傑作を生めなかった。『ゴジラ』というのは冷戦をアイコンにして人間を襲うという傑作なんです。多分、キューブリックはリアリティをもって未来を描くというところで日本の映画に惹かれたんだと思うんだね。



―実際にはどんなところでしょうか?



手塚治虫」さんに声をかけたというのも、手塚さんは絵が丸っこいから明るそうに見えるけど、ものすごくペシミストだよね。それで60年代になって、宇宙技術というか、当時の巨大コンピュータで人間がコントロールされているということに対する“カウンターカルチャー”が沸き起こった時に、非常にキューブリックは巧妙にやったんですよね。大企業から協力をもらうには技術のすばらしさを訴えなきゃいけないんだけど、技術に対してものすごく悲観的に描いていますよね。そして完全にある種、“技術のペシミスティック”な部分を絶ってしまったくらい大きなインパクトを持つと思うのね。僕はあれをキューブリックの1人万博だと思っている。すべてのあらゆる技術と当時最高のモノを彼は咀嚼して、歴史を延ばすとどうなるかということを説得させるだけのリアリティーを持って表現しているわけね。



大阪万博」(日本国/1969)はその後にあった、あれは未来を見に行っていたんだよね。「月の石」を見に行ったり、なにかを見に行ったり。“未来は明るい”と言ったんだけど、彼はそうじゃないと。分かる人には分かるように、非常に沈うつな映画ですよね。技術は非常にチャーミングですけど、全体的にあんな暗いトーンというのはなくて、未来は沈うつなものだと言うことが非常によく描かれていますね。だからそういった部分で、技術イデオロギーみたいなものを完全に変えたと思いますね。万博というのは何万人もが参加して国家を挙げて行うわけでしょう? それを1人でやってしまったんです。それはやっぱりすごい、“馬力”がね。



協力している会社だって「BBC」とか「IBM」とか、当時の最高のところが7社も協力しているしね、その最高の技術を時間延長させていくと何が起こるかというドキュメンタリーを撮っているみたいだよね。今もって時代を追い越してもなんとなくリアリティを持っていると言うのは、彼が科学的な裏づけを持って検証した1つの“アナザーワールド”なんだよね。未来はそっちの方向に進んでいたかもしれないという彼の1つの発想で、懐かしい未来と言うものがそこには確実にあると言う事なんです。どうして『2001年宇宙の旅』で描かれているものが実現したのか、しなかったのかと議論になるのは、彼が徹底的にアーティストの直感だけでなく、技術的な裏付けを持って、きちっとやったというリアルさ、それというのは未来の考古学の素材となりうるものだということですよね。



キューブリックというのはすごくしたたかな人でね、彼はこの映画を、実は完成していると思っているんじゃないかな。自分が思っている方向に結果として観客が流れていくわけでね。その点で脚本の「アーサー・C・クラーク」と大喧嘩してしまって、何故ならクラークは「HAL」(映画に登場するコンピューター)や「モノリス」(カギとなる未知のオブジェクト)の映画イメージに対して批判的なわけ。モノリスなんていうのは彼の中では“ティーチングマシーン”ですから。



あれは未来の神であって、手とかをなくして、異空間を移動して、ちょっとした冗談で猿に知恵をつけちゃうっていう。脚本では非常に合理的に描かれていたものを、映画でひどく神秘的に描いた。最初は「宇宙には人間以外の存在がいる」とかいうナレーションが入っていたんだけど、それだと非常に陳腐化しちゃうわけね。非常に神秘主義的なのに、科学的な学者が出てきてね、宇宙に違う存在がいてもおかしくないとか、学術的に確率を求める、なんて言っちゃうと、彼の思っている神秘主義とは乖離しちゃうから。未完結風の映画自体も、そういったところを残そうとした彼のしたたかな戦略じゃないかな。



ジョン・レノン」が毎週一回は見る、なんていうのも書いてるし、同世代人には1つの共通体験だったわけですよね。何かはよく分からないんだけど、この本を書いている人も何がなんだか分からなくなっちゃったって言ってる。僕も当時大阪で見たんだけど、映画を見ていて初めてクラクラしちゃったのね。上下のバランスがおかしくなっちゃって、休憩になったときにくらくらしちゃってね。非常に多くの人たちはこの映画を見て奇妙な体験を世界中で体験したんですよね。それは本当に彼がよく言っている理解されたら終わりだ、体験させていっていう彼の戦略にみんなはまってしまったと言うところがすごくあると思う。



映画っていうのは、特にハリウッド映画というのは結論があってスカッとして終わるっていうものですよね。非常にカタルシスがあって。でも『2001年』は“考えないといけない”わけですよね。HALはどうなったのか、とか。難しい哲学の本とかを読んでいて考えさせられると言うこともあるのだけれども、この映画でもあまりにもそれに捕らわれちゃって、頭に入らないわけね、感動しているわけでもない。



普通の映画と言うのは、「黒澤明」さんもおっしゃってるんだけど、“心情を仮託できる人がいて、その人に感情を移入できる”というのがある。ところがこちらでは出てくる人物全員に感情移入できない。突き放されたまま話が延々続いて、突然後半には訳のわからない事になっちゃって、それですごく不思議な体験をするから真剣に考えちゃうわけね。初めてあんな映像体験をしたと思う。



オーソン・ウェルズ」(代表監督作『市民ケーン』、『宇宙戦争』)もそうだけど、これまでの映像にない新しい形の大きなテーマを、具体的なリアリティで提案する、と言う意味で非常に似た作家なわけだけど、ウェルズにもできなかったことをやった、“考えさせる”という試みをね。それが忘れがたい体験になってしまった気がしますね。キューブリックは『2001年』を作るときにあらゆることを全部調査してつぶしていくわけだよね。彼は自身の発言にもあるけど、変えた技術の方で腕のいい職人でやった方がいいと判断して、全部手作業でやったんですよね。あらゆるトリックを使って、人間が飛んで行く様子をワイヤーで落としてカメラを引っ張ってスピード感を出すという原始的な技術を“完璧”にやった。



―いわゆる「特撮」ですね。



日本の特撮はそういうアイデアはたくさんあるんだけど“完璧”にはやっていなかった。ワイヤーが見えたりだとか。日本では完璧にやれてないんだけど、キューブリックは何十テイクもやらせているわけでしょう? お酒を頼むシーンだけで50パターン以上やらせたっていうし、しかも全部別のお酒で。あらゆることを非常に単純な方法でほぼ100%完璧にやったわけですよね。日本が開発してきた、できるだけ安あがりで撮れる、それまでハリウッドが使ってこなかったようなトリックで完璧にやったわけですよね。「小松左京」さんなんかも、この映画を見て映画を撮ろうとしたように映画界よりもSF作家に強い影響を与えたのかもしれない。こんなにSFが完璧に描けるんだったらって。『ゴジラ』は大人向けのものだけど、日本でSFといったらすぐに子供向けのものにされちゃう。『大怪獣ガメラ』(大映東京/1965)みたいに。はじめにSFを映像化できる可能性があると思ったみたいだね。









2 日本の映像文化とハリウッド



―ハリウッドの他の「特撮」映画についてはどう思われますか?



僕は『インデペンデンス・デイ』(1996)はせこい映画だと思ってて、あれは明らかに日本が50年代にやってた『地球防衛軍』(東宝/1957)などのテーマそのものなんだよね。宇宙人がやってきて、それを力を合わせてやっつけるという。あのころの技術ではできなかったスケールの大きさでやっただけなんですよね、CGを使うことによる精密さを増して。他は日本の映画の焼き直しなんですよね。『マトリックス』(1999)が「押井守」さんのアニメーションの焼き直しであるように、それまでにできなかったことを実写で一応視覚的な完璧さをもって“当てた”第一号ですよね。『インデペンデンス・デイ』は興行的には成功したけど、あれは誰も評価しないよね。まだ『マトリックス』は、テーマ的なおもしろさとか、視覚的な新しい技術の開発とかがあったからよかったんだけど。ストーリーラインだけ日本のものから持ってきて、視覚技術を良くするとこうなりますよっていうことですよね。



ハリウッドっていうのは非常に“はっきり”しているけど、日本は半分アートなんですよね、“渋いやつ”でも評価しちゃうんです。アメリカはビジネスにならなきゃいけないから、まずはストーリーありきでしょ。ただ昔話とか聖書の話とかヒット小説というのは、あるマーケットでそのストーリーラインがおもしろいって検証されてるんです。だからそれを持ってきて映画化するんですよね、ハリウッドは。だから聖書の話とかはほとんど使い古しちゃったんです。じゃあっていって持ってきたのは“日本のアニメーション”なんです。なぜかというと「世界中で受け入れられたおもしろいストーリーライン」だから。それを日本ではアニメでしかできないけど、大金つぎ込んで実写でやっちゃえと。



―『インデペンデンス・デイ』は実写版「マクロス」でもありますからね。



アメリカが典型的にやってるのは、特にSF映画作家は日本の『ゴジラ』とかのファンでたくさん見ているじゃないですか。あれを“完璧な絵”にするとどうなるかってやってるんですよね。だから世界中で受け入れられたストーリーラインを探したときに、まずは日本に手を出した。すごく残念といえば残念ですよね、それを日本はきちっと実写映画化できないですから。要するに今の日本の映画界は30年経ったって言ってもこれをリメイクする力はないんです。もちろんこうしたテイストは出ないだろうけど、パクリでもいいからやってみようとしてもできないわけです、技術的な面で。僕はあまり期待できない。



―日本の一般映画ファンは気付いてもいません、実力の問題でしょうか?



視覚的な技術が上がったでしょう? ある種リアリティを持っていて、SFの典型的な舞台である宇宙を描いたとしても笑っちゃうでしょう。まだ日本人は月にも行ってないのに、そこでリアリティが落ちちゃうわけですよね。『2001年』でも68年に作られたんですけど、「MGMスタジオ」は「NASA」に負けちゃいけないと、どちらが先に月をみせるか競争しながらやっていたわけです。だからそれ自体はリアリティはあるじゃない。アメリカが月に達するということにリアリティはあるけど、じゃあ日本が宇宙に行ってなんたらという物語になっても、その時点でリアリティの欠落があるんですよね。



そうすると日本人の取りうるSFのアプローチというのはゴジラとかガメラとか恐竜が来たとか、それがリアリティがあるとは思わないけど、都市に巨大ロボットが現れるというのはともかく、宇宙というのは放棄せざるをえないのね。冗談だろうという話ですよね、ロケット1個も飛ばせないのに…、ということになっちゃいますよね。ハリウッドっていうのは副次的なテーマパークといったものを含めれば“アメリカ最大の産業”なんですよね。映画作りそのものが国際マーケットを前提に成り立っているわけですから、それがないとハリウッド映画は作れないんです。



ところが日本映画はそれを前提にできるかというとできないわけです。ただ、チケットが高いから…、豊かな1億人の中から2000円近い映画代を取って、“死なないで済む産業”として残って来たでしょ? それで『ガメラ』作ったり『羅生門』作ってきたんですけど、アメリカのエンターテイメントと競って世界市場を開拓しようという人はほとんどいないし、世界中が韓国のように文化開放したとしても、日本で一番ヒットした『踊る大捜査線』なんて誰も見ないですよ。だったら『ダイ・ハード』を見た方がスケールがあっていいわけです。エンターテイメントでも“アクションエンターテイメント”ならハリウッドの方がいい。でも『リング』とかは韓国でも大ヒットした。エンターテイメントというのはハリウッドのものだと世界中の人は思ってる。日本だってハリウッドのテイストを取り入れて作ってるでしょう。それだったらまがい物なんだよ。それだったらオリジナルの方がいいわけで、実写については勝負が決まっちゃってるんですよね。



―ちょっと救いがないですね。



押井さんが孤軍奮闘されているけど、僕が前から考えていたのは実写というのは先が見えているんです。産業としても明日のことが知れない。ただどんどんハリウッドは日本のアニメーションのテイストを取り入れている。リターンがないだけなんですよね。ディズニーが日本に入ってきて、東宝に任せるかというとそうはならない、ブエナビスタでやっているんですよ。ワーナーだってワーナージャパンでやっている、みんなお任せなんですよ。『ポケモン』だってワーナーに、「宮崎駿」さんだってディズニーに任せている。リターンはないけど、やたら見られているわけですよ。見られているという“日本のアニメーションテイスト”は刷り込まれているわけですよね。



それで押井さんが、だったらアニメーションのテイストのまま、アニメーションを実写にしようと『アヴァロン』(ヘラルド/2001)を始められたのね。ポーランド人の役者を使ったのも、ハリウッドにはポーランド系の人が多いからね、すごくそういうところはしたたかなんだよね。表向きは“僕はポーランドが好きだから”って言ってはいるけど。なんでハリウッドが『アヴァロン』にすごく反応するかというと、ハリウッドにポーランド系の人が多いからなんですよね。その辺がしたたかなことはすごくいいこと。だからああいう試みですよね、アニメーションを実写にするというテイストで行くと。日本ではセットを組めないんだから、超精巧なCGでセットを組んでね、俳優だけ人物をはりこめば、もしかしたらいける可能性がありますよね。そういう可能性を押井さんは開いたわけですよね。



―ちゃんとメジャー系映画館で公開されましたし。



ぜひともそれに続いてほしいと思う。『ファイナル・ファンタジー』(ギャガ/2001秋公開予定)は、ハワイで作っているとはいえ日本の「坂口」さんが生んだキャラクターで行っているじゃないですか。『トイ・ストーリー』というフルCGの映画がブレイクスルーしたんだけど、あれだけリアリティをもったフルCGが世界に受け入れられるかっている1つの踏絵なんですよね。それでもしそれが受け入れられるとしたら、『バーチャ・ファイター』の「鈴木裕」が続いて行ったりとかね。だからゲームのほうにも優れた絵を作れるアーティストはたくさんいるんですね。だから割と優れたことをやっているし、CG技術というのはハリウッド以上に日本のゲーム会社は持っている。そっちの方が僕はアプローチがあるし、アニメーションには量的拡大があった。



もう“日本映画”って社会を切り裂くような鋭利なテーマってやらないじゃん。でもやっぱり宮崎さんはすごいですよね。「ルーカス」だって「スピルバーグ」だって、彼ら映画人には環境主義者が多いんですが、どう環境問題を描いていいか分からない。だって環境問題は突き詰めていけば“人間が悪”なんだから。「スピルバーグ、おまえが悪者じゃん」ってことになるんだよね。生きてることが悪いってことになってしまうわけでしょ? それを宮崎さんは懲りずにやったんだよね。それを繰り返してやった。僕は『風の谷のナウシカ』(徳間/1984)ですごいと思ったけど、『もののけ姫』(徳間/1997)というあんなに“破綻のある映画”を平気で作った。それはなぜかというと量的拡大があるから、ああいう破綻のある映画も人々に受け入れられている。



―アニメとしては硬派な押井さんとか、“隠れ”社会派な「長谷川和彦」監督(代表作『太陽を盗んだ男』)とかはどうですか?



押井さんの映画ってめんどくさい映画なんですけど“ネットワークの問題”をきちっと描いている。劇場用アニメーションはそこそこおもしろいんですよ。そこそこおもしろいっていう前提があるから、『パトレイバー』だって『攻殻機動隊』だって見てくれるわけでしょ?



長谷川さんって僕は優秀な監督だって思っているし惜しいと思っています。“赤軍”の問題なんて今は誰も怖がって撮らないし、誰も見ないよね。赤軍側からも狙われるし、右翼からも狙われる。ところで、僕は今「スタジオジブリ」の評議員をやっていて、ジブリの鈴木さん(プロデューサー)とすごく仲がいいんですけど、酔った勢いで言った事がある…。



火垂るの墓』(新潮/1988)はすごくいい映画なんだけど、でも僕は見たときにこれはダメだと思った、日本映画のいいところと最悪のところを同時に表したような映画なんですよね。同じテーマで『シンドラーのリスト』(1993)っていうのがある。子供と一緒に『火垂るの墓』を見に行ったんだけど、娘たちはもう二度と見たくないって言うんだよね。すごくむごい映画なの。要するに“大人は子供を救えませんでした”、ハイ終わりって言う。ユダヤ人の虐殺ってかなりむごい映画なんです、それでもリピートして見れるように作っているんですよね。同じテーマでも、それだけ違う。だから鈴木さんに「あれはよくないよ、高橋 (ジブリプロデューサー)さんはあれでファンを減らしたよ」って言ったの。現実を知らせるドキュメンタリーなどのノンフィクションとエンターテイメントは違うよって。高橋さんはあの映画を撮ったことによって、戦争から目を背ける子供を少なくとも2人は作ったの、僕の子供。高橋さんはそういうことに目を向けさせたくて映画を作ったのに逆の効果になってしまった。



シンドラーのリスト』は批判はされるけど、みんなくり返して見るんだよね。高橋さんのエンターテイメントとしてのあり方は100%間違ってるんだよね。そういうエンターテイメント性というのは長谷川さんもそうだけど、欠落していると思います。宮崎さんが偉大なのは何をやってもエンターテイメントになるんですよね。どの映画にも女の子のパンチラシーンを入れたりとかね。日本の評論家はそれを批判しすぎたと思う。次の世代に何かを考えてほしいというのなら、そういうリピート性があるような風に作っておかないと。いい映画で告発するのはいいんだけど、くり返しくり返し見せるようなカタルシスがないといけない。



そういうところが日本で“いい映画”と言われるものの問題点だと思う。その点アニメーションは年齢層が下にグッと下がっているから、そういうのを観ないんですよね。僕は韓国の人と同じで『ホワイトアウト』だったら『ダイ・ハード』の方がいいと思いますね。僕はここ10年の映画の中で一番優れているのは『リング』だと思いますね。テーマ性といいね、“てらい”のないきちっとした古典的な演出でストーリーラインもきっちりしていてね。僕は世界的にみても『リング』は世界的な大傑作だと思う(ハリウッド版の制作は決定済み)。それ以外に記憶に残るものはないね。



―長谷川監督に『ホワイトアウト』と『ループ』のオファーが行ったのは皮肉でした。



逆なんだけど、“こだわる人”に超エンターテイメントを撮らせると、『ミッション:インポッシブル』の1がいいかというのは問題があるにしても、「ファンの人もおもしろいし一般の人もおもしろい」というエンターテイメントになっていたと思うね。押井さんも今は『攻殻2』をやっているけど、僕は『ルパン』をやれっていったんだよね。「モンキーパンチ」(原作)さんもいいって言ってたのに…、おもしろいと思うのにな。“くら〜いルパン”っていうのを絶対見たいと思う、宮崎さんのルパンも良かったけど、全くテイストの違うルパンも見たかった。



押井さんはやたら『ブレードランナー』(1982)のことを言うよね、彼は映像がスタイリッシュですからね。僕は何をやっても支援したいと思っているのは「押井守」、「大友克洋」(「AKIRA」原作・監督・脚本)、「樋口真嗣」(「ガメラ」シリーズ特撮監督)ですね。でも押井さんと大友さんはそこそこ支えられていますからね。僕はあいつ(樋口氏)を監督にしたいんだよ、『ガメラ』にしても「金子修介」監督のシーンになるとカクンと落ちるでしょ? あの特撮のところのテンションが維持されていたら『ガメラ3』(大映/1999)もすごかったんじゃないかと思うんだよね。どうして映像で説明するの、っていうことですよね、どうせやっても分からないんだから。



―最近の映画で気になるものはありますか?



僕は『グリーン・デスティニー』が好きだったな。家族で観に行ったんですけど、アジアの映画でこのクオリティを出せるんだっていうことを見て悲しかった(笑)。ストーリーラインが単純すぎるんで、あれを90分に縮めればおもしろかったと思うんだ。『グラディエーター』なんて、合戦シーンは黒澤監督の『乱』とか『影武者』の大パクリ大会でやってたけど…。僕は必ず家族と一緒に見るのね、知り合いの映画が多いから贔屓目になっちゃうといけないし。『人狼』は「沖浦」さんという天才アニメーターの初監督作品としては良かったんですけど、まじめに過ぎましたよね。もう少しメリハリがついていてもいいと思うんだけど。あのクオリティで、あらゆるアニメーション史上で最高のクオリティだったと思いますね。押井さんに対する遠慮もあったと思うけど、もう少し遊ぶべきだったよね。でも初めての作品であれだけできるんだから、日本のアニメーション市場って期待できるよね。



―『2001年宇宙の旅』が再公開されますが。



みなさんは同時代で見ていないから不幸ですよね、古典としてしか見ていないから。“シネラマ”がもう装置として残っていないから。婉曲したスクリーンで見たのは本当にすごかった。まだキューブリックが生きていた1998年にアメリカ協会がデジタル補正をしたんで、それを記念した時に主演の2人がいたんだ。NASAオタクの「トム・ハンクス」やNASAの人などを呼んで、一週間トークショーをやった時に見に行ったんですけど、ボーマン船長(「キア・デュリア」)は分かった、でも、もう1人はすごく太ってて隣にいたのに分かんなかった。あれ音楽がすごいでしょ、あれを大音響の劇場で見ると本当にすごいんですよ。突然音がやんで宇宙空間になったりするしね。そういう時は本当に怖い。いきなり“スーハースーハー”言い始めるとドキンドキンしちゃうし。やっぱりセンス抜群だと思いますね。



―「ザク」の呼吸音と一緒のヤツですね。



富野由悠季」(「ガンダム」総監督)さんは、『スター・ウォーズ』(1977)をかなり意識して破綻のないストーリーに移行させて、正義も悪もなくして、昔話の形を持ってきて…、そういうものを作りたかったんだって。“非常に日本的”だよね、どっちも悪くないのに戦わなくちゃいけない。そういう混沌としたアメリカ的でない状況を描こうとした。富野さんは理論的に語れない人だから混乱しちゃうんだけど、よくあれだけ撮れると思いますよね。富野さんの世界というのは奥が深いですよね。アメリカでは『ガンダム』が第二の『ポケモン』って言われるくらいヒットしているんですけど、暴力シーンが多いから富野さんのバージョンだとダメだと言うということで、『ガンダム ウイング』をやっているのね。それではまったら『ファースト ガンダム』も見るだろうと…。すごい“資産”ですよね、日本のアニメは。いい人がすごくいますよね。



セーラームーン』だってすごいよ。この前アニメーションの特集で何か書けって言われてDVDでまた見たんだけど、涙出てきちゃって娘からバカにされたんですが、やっぱりすごい演出ですよね。メリハリが効いていて。量が多いから、危険なことにもチャレンジできるじゃないですか。量が少ないと怖くて、当たらないと次ができないから冒険できないじゃないですか。アニメーションは冒険だらけですよね。『鉄腕アトム』なんてだらだら続いていたけど、富野さんは『アトム』のころからの人だから、あらゆることをやったって言ってますよね。そこで鍛えられているから、あの手この手の“引出し”がすごくあるんですよね。



だって押井さんの『うる星やつら』なんて実験アニメじゃないですか(笑)。アニメーションだからって許されるのであって、あれが実写だったら怒られるよね。「庵野秀明」(「エヴァンゲリオン」監督)さんは次じゃないかな。軸がぶれているから。自分を抑えてあそこまできっちりできるなんて。ある種の時代の風を受けて『エヴァ』をやって評価され過ぎたと思う。次に彼らしいものを、実写(『式日』等)でここのところやっているけど、まだどうなるか見えない。ものすごい樋口と仲いいでしょ? 『カレカノ』にも出てくるし、『エヴァ』のシンジも樋口の名前だし。



―話はつきないですが「特撮・アニメ」ラインで、またいろいろ語って下さい。
今日はどうもありがとうございました。









このインタビュアー(俺)が、『ゴジラ』を初めてスクリーンで見てから30年経ったことを確認した。










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