戦艦型(花魁型)アスペルガーの論 0「しかし災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 かしこ。」





__ 文化の日ゴジラの日、まんがの日 記念 __
11/3は初代ゴジラ封切日にして手塚治虫の誕生日(その4)

そして【銃閉症】『ハクソー・リッジ』評 を書いた一年後

この記念日に合わせ、下記の通りタイトル変更いたします。




「戦艦型(花魁型)アスペルガーの論」




本ブログタイトルの変遷


 シンクロニズム 戦艦の論 1 〜 6-11
  ↓
 戦艦の論 THE SEVEN I〜XXI、THE EIGHT I
  ↓
 戦艦型(花魁型)アスペルガーの論


                 以上




以下は再録


2012-10-25 0(LOVE)と幻想のシンクロニズム 3
シンクロニズム 戦艦の論 セカンドシーズン 2 「攻撃を一点に集約せよ、無駄な事はするな。」




「戦 艦」とは、


最も強大な攻撃力と、


最も強固な防御力と、


最も長大な機動力とを兼ね備えた、


有人施設のことである。


なお、外観については特に限定せず、
水上艦艇のみを言い表す訳ではない。



広義には軍艦のことを戦艦と呼ぶが、
第二次大戦までは、軍艦(駆逐艦なども含まれる)の中でも、
特にその階級を表しており、
当時最大の攻撃力を持っていた兵器が火砲であったので、
その大きさと、装甲の厚みと、運用者の数に比例し、
戦艦も年代を追って巨大化した。




〜戦艦出現と消滅、再登場までの歴史 古代・中世・近世 〜


7世紀、日本(倭国)「白村江の戦い」(アウェイ戦)に敗れる →国家防衛意識の高まり

10世紀、中国で火薬発明(当初は威嚇効果のみ)

12世紀、平清盛、日本の懐近く(ホーム)に初めて国際貿易港を開港(後の神戸港)

13世紀、少弐景資、北九州(日本の辺要)にて元(連合)軍撃滅 →ヨーロッパ、アジアの中で日本のみ

15世紀、大砲が戦争で本格使用される。

16世紀、携行火砲(火縄銃)量産技術の発達 →保有数で日本が世界No.1となる



兵器開発(発明)において、日本は遅れをとっていたが、
その運用方法(革新)では、他国を圧倒的に凌駕していた。

織田信長の戦略的優秀性を証明する「種子島銃の三段撃ち」(通説)は、
後に虚飾を加えられた話かもしれない。

しかし、この教訓(「事実上の作り話」)があったお陰で明治の海軍は、
最強と恐れられたロシア艦隊を一斉射撃の餌食にする事が出来た。

信長は、戦船の防御にも手を抜かなかった。
彼は、造船の常識を打ち破って木造船に鉄板を貼付けさせている。
その後、鉄製の船を史実で見つけるには、19世紀まで待たなくてはならない。



〜戦艦出現と消滅、再登場までの歴史 近代 〜


19世紀末、米国艦隊浦賀来航 →祝砲の爆音に驚き、長き鎖国を解く

    勝海舟、神戸海軍操練所設立

20世紀初頭、日本艦隊、海戦において空前絶後の大勝利 →地球規模で戦艦建造競争に突入


1930年 
神戸沖にて「特別大演習観艦式」開催
御召艦「霧島」ほか、「日向」、「青葉」、「赤城」など計165隻参加
 → 摩耶山(六甲)が見学者で埋まり、大衆がニュース映画で初めて「戦艦を目撃」する。



艦隊決戦、または戦艦保有状況により、

国家外交の問題が決着するという時代の幕が開き、

海軍軍人は花形職業となる。


尖閣オスプレイ、拉致等の外交課題は、
民主的対話や、芸術交流や、経済援助や、
暴動・デモ・ボランティア・テロ・大量ツイートなどの実力行使を伴わなくとも、
超弩級戦艦一隻を背後に従えた威圧によって、
早期進展させることが可能であった。


この普遍原則を、ここでは仮に「戦艦の論理」と言う。




〜戦艦出現と消滅、再登場までの歴史 近現代・現代〜


1941年
日本帝国海軍「空母機動部隊」真珠湾を攻撃、無傷の大戦果を上げる。
しかし、機動力に劣る後方の「戦艦」は一発の砲弾も撃たないまま帰投。



1945年
水上特攻の「大和」、披水爆実験の「長門」、戦艦最期の断末魔を上げる。

そして、太平洋の奥底で眠っていた英霊は、
ゴジラに怨念を託して東京湾上陸する。→1954年
芹沢博士(平田昭彦)、入水心中(特攻)。


1957年
地球防衛軍』の安達博士(志村喬)、
宇宙人の侵略に対する早期警戒を主張。


1959年
宇宙大戦争』の安達博士(千田是也)、
強力なる熱線砲と、敵宇宙基地攻撃用のロケット(「事実上の戦艦」)を同時開発。


1968年 
神戸にて「国際防衛会議」開催
ペダン星人の報復攻撃(観測ロケット打ち上げを「事実上の攻撃」と受け取ったため)
 → M78星雲よりの武力提供者、キングジョーに敗れる


1974年
九州沖に沈んでいた大和を、イスカンダルの技術供与により宇宙戦艦に改造(「事実上の置き換え」)
 → ガミラスとの戦いに勝利する




大艦巨砲主義、すなわち時代遅れの象徴であった戦艦は、
テクノロジーの発達により、物理的には陳腐化したが、
その論理と精神性は、ヤマト神話と共に未来へ継承される。



http://d.hatena.ne.jp/BRIDGET/20121025/1351105973
より





戦艦の論 THE EIGHT I「本物の戦闘が、どう見え、どう聞こえ、どう匂うかを伝えることだ。_Steven Spielberg」







【銃閉症】『ハクソー・リッジ』評 - part3




 個人目線の戦争


評価の高い映画である。レビューではプロも素人もそれぞれの見方で着目し、思うところについてよく語っている。その解釈は本来意図するところとズレているかもしれないが、制作側の想定通りとも言える。



https://movies.yahoo.co.jp/movie/ハクソー・リッジ/359061/review
 4.08 点 / 評価:2,299件



ストーリーの基礎を成す人物素材は実在し、華々しい実績を誇るため、その存在を知らなかった者にとって、ちょっとした知識披露に役立つ作品である。戦いの舞台となった沖縄にまつわるインフォメーションは、娯楽鑑賞者にとって参考としても必要ないが、新聞記者がこぞって教養アピールしたため、これに言及する意見もある。一部の低評価者は、日本兵が無残に殺されまくる点に納得していない。イスラム兵や中国兵を標的にした戦争アクションなら大好きなのに、という右派ナショナリストの外れ値を差っ引いて計算すればポイント平均点はだいぶ上がる。



アウトレイジ』に引けを取らない剥き出しの暴力表現は苛烈かつ執拗で、アカデミー受賞の威光がなければもっと非難されていただろう。痛々しさを伴うグロテスクシーンは、過去作品の成功により顔パスの効く監督の趣味に寄り添って、思う存分「写実に淡々と」描かれている。「#戦争 #リアル」カテゴリーで、よく引き合いに出されるスピルバーグの『プライベート・ライアン』は以下の評価である。



https://movies.yahoo.co.jp/movie/プライベート・ライアン/84307/review/
  4.19 点 / 評価:2,021件



たった一人で75人助けた『ハクソー・リッ慈』と、たった一人に8人が命をかけた『プライ米屠・ライアン』は、第二次大戦時の東西二大激戦地を舞台にしたことで、図らずも似たような戦闘シーンが生まれていた。いずれも、間近で弾丸の飛び交う死地にいた「誰かの回想」という形で描写されており、戦局は俯瞰的にではなく至近的に、客観的にではなく主観的に捉えられている。汗や血や火薬の匂いがしてきそうな反面、戦争映画にありがちなナレーションによる戦況説明や、上に流れていくテロップや、軍事会議での意思決定模様は省略されている。『ハクソーR』の描く戦争は沖縄戦であるが、戦艦大和や神風特別攻撃隊の特攻は見当たらず「戦艦の論」的にはちょっとさびしい。



当時の兵士たちの目線に立ち、政治的思想をあまり感じさせることなく、一人の目で認識可能な戦争の日々を、それでも個人にとっては大きすぎる出来事を、極めてシンプルに正確に伝えようとしている。よって、教育書に描かれた戦争と『ひめゆりの塔』しか知らない人が、描かれなかった事実があると訴え、作品にその咎を負わすのは筋違いである。なお、脚色はあるものの、いずれも史実から大きく外れるものではない。ちなみに、『Pライアン』でノルマンディー上陸作戦に参加したエキストラは、写実を追及するため実際のアイルランド陸軍兵士を起用している。このキャスティングに先鞭をつけたのがメル・ギブソン(『ブレイブハート』)だったので、「#戦争 #リアル」については、スピルバーグの二番煎じという指摘はあたらない。



『Pライアン』と『ハクソーR』はシンクロする部分も多いが、映画の構成面から考えるとだいぶ異なる展開をしている。『ハクソーR』の主人公はデズモンドただ一人で、導入のスローモーションで「やられた」、と思わせながら成長編、戦場編を通してストーリーを引っ張り、最終的にも生き延びる。兄弟、恋人、両親も登場し、中でも二代に渡って大戦に参戦した父親との関係変化は重要だ。一方の『Pライアン』は全編通じてほぼ戦場編しかなく、銃後で家を守る家族との関係は語られない。従軍兵士の体験を元に造形された主人公が二人いて、最後に「戦死した者」と「生き延びた者」とに命運が分かれる。助ける精鋭チームのリーダーと、助けられる二等兵は実在人物ではない。



『Pライアン』は、よれよれの爺さんが大勢の子や孫を引き連れて、整然と並んだ墓の前で涙するところから始まる。穏やかな陽の下で星条旗が静かにたなびくシーン、後に画面は過去に切り替わり、チームリーダー「ミラー大尉」が大映しになる、荒れた空模様の中を進む上陸用舟艇の轟音と共に。この人が主人公で「生き延びていたんだな」と誰もが思うが、結末が明らかにするようトム・ハンクス演じるミラーは墓石に刻まれている側だった。この変化球で改めて気づく、『Pライアン』は戦死者を祀ることをないがしろにはしない。多くの人が忘れてしまっている、何百万人かの戦没者の内のひとり「軍人ミラー」は、彼によって救われた者とその子孫たちにとって、ただ武勇を誇るヒーローではなかった。『ハクソーR』を注意深く見て気づいたことだが、飲んだくれ親父が管巻いていた墓地のシーンの墓石には偶然にも、このミラー(注)の名前が刻んである。



 アパムとデズモンド・ドス



アメリカ政府が、国家の威信をかけて何としても救出しようとしたライアンは、四人の兄弟を戦場へ送り出し、そのうち三人が戦死したという家族の悲惨なエピソードを語る上で重要だ。そのために犠牲となったミラーも、語りだせばキリがないほど勇敢で思慮深く威厳に満ちている。ところで、『Pライアン』には、もう一人気になる主要人物がいる、「アパム」とかいうヘタレだ。こいつさえいなければ、ミラー死ななかったのに、とか言われるような、どうにも頼りない新兵であった。



アトムやアムロのような名前で印象に残るアパムは、体格小さくひょろひょろした青年で、通訳を主任務として「七人の救援隊」の八番目の兵士として加わっている。『七人の侍』で言えば、意識高い系若侍「勝四郎」(九割)、偽のサムライ「菊千代」(一割)といった役所だ。捕虜にしたドイツ兵を「殺さず命は助けてほしい」と願い出るようなところがあって、歴戦の猛者たちからは、現実を知らない甘いヒューマニズムの持ち主だと反発を抱かれている。だが、彼こそがスピルバーグが肩入れする、『Pライアン』裏の主人公ではなかったか、、。





アパムはデズモンドと違って銃は持てる、しかし撃つことができない本当の臆病者だった。そのため、戦場では足手纏いにしかならず、戦闘に貢献しないだけでなく、確実に敵を制圧できる有利な立場でも、めそめそ泣きながら仲間が殺されるのを見過ごしていた。彼は、いらない知識だけは豊富だが実戦経験が皆無で、無駄な装備をごちゃごちゃ集めて取り散らかしている。戦場で必要なのは「タイプライターではなく鉛筆だ」と、呆れ顔のミラー大尉に、その仕草で教えられるほど臨機応変とは無縁の役立たずだ。にもかかわらず、ドイツ兵を一掃する山場シーンで、アパムだけが豹変したかのような大活躍をしてしまう、なぜだろう。



ティーブン・セガールみたいな主人公が表情を変えることなく、敵兵をなぎ倒せばただのおもしろい映画だが、その大事なカタルシスシーンを、カッコ悪いと思わせていたアパムに突然託してしまう。そうすることで、彼がどういう存在だったかを振り返ることができる。戦争映画の主人公には本来なり得ない、最悪の失態ばかり見せる彼は、実は大方の観客が、いや全観客が、仮に戦場に連れ出された時に見せる、無様で普通の代表的な姿であった。そういう等身大の人物を配置することで、緊迫の戦場に目線を合わせ、できれば疑似体感できるよう、隠し球が仕込まれていたのだ。



平常だれかに守ってもらいながら、安全が保障された場所で、武力行使とそのための準備活動を非難するのは容易い、自閉症ニートでもできる。でも実際、今日もどこかで続いている戦争というシチュエーションの中で、賊が侵入して家族が殺されそうな非常事態で、それでも銃を撃たないことがありなのか、立ち止まってしまう。アパムもさすがにショックを受けた。自らとった行動が、何もしなかったという態度が、人の生死を左右したことに。弾を届けることができないため、仲間は目前の敵兵に、撃ち尽くした銃やヘルメットを投げつけるしかない。孤軍奮闘する友軍を尻目に「逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ」と、シンジのように念じたに違いない。そしてヘンシンする。航空支援を受けていたとは言え、ATフィールド全開でドイツ軍幹部を武装解除させてしまったのは圧巻だった。



 モード反転、身を捨ててこそ



『ハクソーR』のデズモンドも最初の戦闘では、なかなか衛生兵としても活躍できず、助けるというよりは助けられていた。周りから「そらみたことか」という蔑みの目線を浴びながら、一進一退する激戦のさなか、なんとか懸命に踏みとどまっていた。そのうち日は暮れ、まだ動ける味方は宿営地まで撤退を始めた。だが、彼が本領を発揮するのはここからだった。闇の中、泥だらけの顔で目だけを光らせると、動けない負傷者を次々に発見した。そして、すさまじい勢いで縄を結び、安全な崖の下へと降ろしていく。暴走モードに突入した彼は、息のある者を担ぎ、背負い、休むことなく、汗や汚れを拭うこともなく、食べることも飲むこともなく、時には日本兵もお構いなしに手当てし、どんどんその数は膨らみ、東の空が白み始めるまでに、なんと敵兵を含め75名もの人間をたった一人で救出するのであった。



アパムの話は作り話だが、もっと作り話のようなデズモンドの話は真実だ。今回を含めて三回連載することになった『博総・リッジ』の、徹底して銃を持たない話と、多くの人命を救った話は、信仰の実現という意味では理想的なエピソードかもしれない。だが、戦闘行動学的には説明がつかないように見える。銃をもたない衛生兵がいて、それなりに活躍したという話ではない。また、武装していたとしても、たった一人でそれだけの人命を救えるものではない。どちらにしても、異常な話であって、信念や信仰心だけではその因果関係の説明がつかない。、、ただ一つの仮説を除けば。




 part4に続く。








(注)
エドワード・ミラー」と墓石に刻まれている。
検索したらこんなものを発見できた。これって偶然?

https://www.amazon.co.jp/オレンジ計画―アメリカの対日侵攻50年戦略-エドワード-ミラー/dp/4105284010/ref=sr_1_4?s=books&ie=UTF8&qid=1519147835&sr=1-4











戦艦の論 THE SEVEN XXI「映画の世界は、架空の英雄であふれている。_Mel Gibson」







【銃閉症】『ハクソー・リッジ』評 - part2




 衝撃の真実、右翼も左翼も賞賛し誹謗した



沖縄戦で貫いた、反戦の魂 「ハクソー・リッジメル・ギブソン監督
http://www.asahi.com/articles/DA3S12991162.html
(有料ページ)

ハクソー・リッジ 沖縄戦、人間の弱さ描く
https://mainichi.jp/articles/20170623/dde/012/070/011000c


武器持たぬ米衛生兵は“恐ろしい日本兵”も救助した−壮絶な沖縄戦の真実描く米大作「ハクソー・リッジ
http://www.sankei.com/west/news/170629/wst1706290007-n1.html


沖縄戦を描いた映画『ハクソー・リッジ』が“沖縄”を隠して宣伝…背景にはネトウヨの“反日”攻撃への恐怖
http://lite-ra.com/2017/06/post-3276.html


人間が一線を超える瞬間を捉えた“戦争映画”
http://realsound.jp/movie/2017/07/post-88439.html


ハクソー・リッジ』はなぜ炎上? 語られざる“沖縄戦”の真実と闇
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170818-00010000-cyzoz-soci





『ハクソー・罹ッジ』とは、戦争的映画拒否者へ配慮し良心的戦争映画のフリをした、反戦的映画拒否者も納得の実戦的映画である。しかしながら、銃携帯を拒否して戦闘に参加することになる、青年デズモンド・ドスの描き方はとても丁寧で、話題を集めた激しいアクションは全部カットして、ドラマパートだけを抽出しても、宗教や人間性を絡めた奥深いテーマ設定になっており、最低でも二回観る価値がある。アカデミー編集賞を獲得したことで証明できるように、テンポよく進むライフストーリーは、無駄なくわかり易く引き込まれる。タイトルにある「リッジ」は断崖という意味で、映画のイントロと後半だけでなく、山あり谷あり崖ありの、デズモンド人生の転機には必ず出てきて、その断崖が単に戦闘の行われた「前田高地」(参考/http://www.okinawa-senshi.com/maeda-new.htm)のみを意味しているのではないことがわかる。



 良心的兵役拒否憲法で認められている



ところで、前回(part1)「戦争を否定するようなワードは一切ない」と断言してしまったが、それに近い台詞はあったかも知れない。例えば、昼間から飲んだくれの父親は、「あいつも、あいつも皆んな殺されてしまった」と、戦争をディスることしか知らないし、母親の「戦争に行く前はいい人だった」の言葉も、直接的ではないにしろ反戦ワードの一種だ。でも戦争反対派筆頭の父親からして、捨ててなかった古い軍服をひっぱりだし、過去の戦功をダシにして、有罪宣告寸前の息子を救い戦地に送り出している。その時の法廷演説が秀逸で「憲法を守るために戦うのが戦争だ」と言い放ち、見下した態度をとる将兵たちを黙らせている、言い分が平河町護憲派と反比例なのがおもしろい。ともあれ前半部の反戦モードは、これで丸ごと裏返されることになる。反戦主張らしきものは「銃を持たない」主人公に残るのみだが、彼は戦争自体には目立って反対していない。医療の道を閉ざされ工場で働く彼にとって、怪我人の手当てのために戦場に赴くことは、むしろ願ってもないことだった。



軍の規律を乱す存在は、軍隊を嫌いな人たちからすると頼もしい味方に見える。これが高学歴左翼にウケる理由だろう、「世の中の人間すべてが銃を持たなければ戦争がなくなる教」を信じているユートピアンにとって希望の星だ。思想表現のデモンストレーションとして「銃を持たない」とすれば、訓練所の教官をこれほどないがしろにする行為はない。ストレートな挑発として、受けて立つのが軍事教育の指導者として当然の役割であった。連帯責任を取らされる同僚の恨みを買うのももっともなことで、集団暴行を受けるのは必然だ。先立って喧嘩を売り、事態が悪化する前に膿を出そうとした兵舎のいじめっ子大将は、それほど悪役ではない。仮になんらかの事情があるにせよ、周囲に迷惑をかける前に目立たないよう解決する、大人としての対処がありそうなものだ。



 出る杭は打たれる



一つ飛び出てしまった釘頭は、白い目で見られても、便所掃除をやらされても、顔を叩かれても、くじけないどころか心を一層強固にしていった(これは、崖の上の奮闘に通じる)。幾度説得を受けても絶壁のごとく拒み続け、紊乱は訓練所全体の士気に影響を及ぼすレベルに達した。思いやりから逃げ道も用意されているにもかかわらず、なぜそうしているのか。周りは「へたれだから」とみなしただろうが、実のところ本人にはわからなかった。人権への配意を知っている上官たちですら、猶予ならない事態ととらえ彼を逮捕・拘留する。そのため当人の結婚式にすら行けなかった。晴れ舞台を台無しにされたにも関わらず、健気にも会いに来てくれた新婦が、「銃を持っても撃つ必要はない」と真っ当なアドバイスをしてもラチがあかなった。「プライドのせいだ」と指摘されると、表情を硬くして目を逸らした。



デズモンドは「銃を持つべきではない」とは言っていない、「持たない」信仰を広めようとも思ってない、ただ一人、銃に関する訓練を受けないだけだ。銃を持たずとも戦場へ行き傷ついた兵士を救いたい、彼の解釈は以上で、市民運動家が好きな「ためにする抵抗」ではない。持たない理由はシンプルだし何度も説明している、他の人が持つかどうかまでは言及していないのに、主義変更を強要されるのは受け入れ難いと感じている。でもそこは「空気を読め」というのが、アメリカであれ日本であれ北朝鮮であれ、軍隊であれ学校であれ労働党であれ、集団社会の常識というものだ。それが「できない」のなら世間からの退場もやむを得ない、命令違反という罪を負って「収監」されるか「精神病院」に送り込まれるか「銃殺刑」に処されるかだけだ。損になることはわかっていても決めたことを曲げられない、それがデズモンドという人間の気質なのだった。



面従腹背」という言葉がある、うわべは権力者におもねるが、見られていないところで反抗的な態度をとる、または考えていること_。“腹背”が出来ない人は稀にいる。良かれ悪しかれ、生活していく上で必要とされる使い分けだが、この能力がないため、投獄されるか処刑された人は古今東西少なくない。例えば近代日本の指導者を育てた「吉田松蔭」はその典型だ。藩に盾突きテロ計画を展開し、黙っていればいいものを、捕縛されてからも幕府を痛烈に批判したため斬首された。真正直というよりは、周りに災いするほどの天性のバカだ。鋼鉄の断崖をよじ登るようにして、米露の戦艦に許可なく乗艦しようとするなど、当時はもちろん現代の常識に照らし合わせても理解不能な男だ。しかし彼なく維新は成らなかったので、より大きな社会全体から見ると進歩に欠かせない有益な人物と捉えることができる。



 世界一の臆病者が、英雄になった



のキャッチコピーを通して映画鑑賞を決めた人は、結果が分かっているので一途な主人公を応援できるが、親父大活躍の起訴取り下げパートまで、客観的に彼を支持する理由は見当たらない。親の反対を押し切って入隊したにもかかわらず、軍の命令に従わないとなれば、同情の余地はなく除隊では済まない、刑務所送りになったとしても自業自得だ。これほど妥協を知らないピュアでわがままな青年を、擁護しなければならない理由なんてあるのか、、。「出る杭は打たれる」とか「出過ぎた真似」という慣用句があるように、他と違う行動を取られることに腹を立て抑えつける人がいる。それが一部であればいいのだが、杭が打たれる状況では、たいてい雰囲気に流され周りも叩く側に付く。そして、皆が横並びになって、歩調を合わせられるようにしたことで、圧力をかけた人らは「とてもいいことをした」と思っている。だが、生物・人類の歴史が証明するように、性能・志向が同一の均質集団が存続したことなどない。



強者もいれば弱者もいて、知能に秀でた者も、そうでない者も共に助け合い、弱者も時に全体貢献する機会を与えられる集団のみが生き残ってきた。一つの物差しで採用された者だけそばに置き、聞きたくないことは聞かないリーダーの率いる集団は、例えばブラック企業のように一時勢力を誇っても、多様な人(特定因子)に対しての想像力と応用力が育つことなく、いずれ淘汰されるようになっている。出た杭の中には、叩いても叩いてもへこまない、沈まない、落ち込まないものがある。それによって、やがてまわりの杭が何かに気づき、備え、社会変化や大災害などの障崖を乗り越え、躍進を続けることになる。世界的大企業ですら危機事態への対応が遅ければ、数年で抹消されてしまう超スピード時代にあって、経済界、産業界ではそのようなイノべーターの存在をかつてより評価し必要としている。



後から気づいたことだが、この映画の裏主題は「おまいら健康な社会生活者が、いかにヒーローとなる大人物を小者扱いし、日常の中で見過ごしているか」という事実の突きつけにあると思う。大勢の名のない英雄と不運な参戦者の犠牲の上に、今の世界がなりたっているという忘れがちな真理を、アル中老兵の声を借りて伝えていた。



戦争を遠い世界の出来事のまま、近づけてはいけないと願うなら、真実に迫って寝た子を起こす必要はない。真実を追求するのは非戦争状態でも、時として同じ何かが起こり得る、あるいは起こっていて直視する必要がある、と監督が考えているからだ。軍が舞台になっているので、いい話として記事にするなら反戦しかないという、評論家の軽々しさも含めて、そのような観念論者に対しアンチテーゼをぶつけているようにしか見えない。反戦映画というよりは「反嘘くさい映画」で、反戦を貫くならここまでリアルを描き切ってみろとでもいいたげだ。





『薄層・リッジ』では、いい国も悪い国もなく、悪い人もいない、主人公はやっつけるのではなく、ひたすら救う。ハラキリ、日の丸がなければ対戦相手は朝鮮人ベトナム人に見えるし、歴史知識のない人が鑑賞した際には、別に戦場はどこだってよいストーリーになっている。降伏すると見せかけて肉弾テロを敢行する卑怯な手口で、主人公らを追い詰める敵は恐ろしいが極悪非道というほどでもない。そもそも、さとうきび畑を踏み荒らし住処を奪い民間人を殺戮しているのは主にアメリカ軍だ(日本軍もな)。家族を守るために手段を選ばず闘う勇敢な男たちを、悪人設定できないことは制作側も知っている。



本筋のいじめ役である自軍、返り討ちに合ったアメリカ側も冷静に見て理不尽な対応は取っていない、戦艦の怒号に怯まない日本兵が強すぎるのであって、参謀本部の作戦が前線軽視なわけではない。オキナワを取り上げたのは、朝日新聞の歓心を買うためではなく戦線離脱地だったからで、英雄的活躍を見せるなら実際デズモンドが赴任したグアムでもレイテでもよかった話だ。後半は戦闘一色となるが、ほのぼのした純愛編を含め全体を貫く主張がある。それは、同調圧力に屈せずブレない、曲げない、諦めない心情への理解要求だ。信念や信仰ではなく、もっとプリミティブな感情要素が、この主人公を支配しているとみる。詳細は次回に譲る。



がんじがらめの規制渦巻く、旧態システムの納得いかないプレッシャーに対して、孤立した主人公デズモンド・ドスは、激しく静かで時に暴発的で、人を寄せつけない断崖のような対抗姿勢をみせた。同様の風骨は軍隊組織以外の業界や団体や企業でも確認できる、例えば、大友組の大友や、角界貴乃花親方や、ハリウッド界のメル・ギブソンが見せた気概のように。







 part3に続く。












戦艦の論 THE SEVEN XX「排除されないということはございません。排除いたします。」







__ 文化の日ゴジラの日、まんがの日 記念 __
11/3は初代ゴジラ封切日にして手塚治虫の誕生日(その3)




 そして『ハクソー・リッジ』DVD & Blu-ray 発売日




【銃閉症】『ハクソー・リッジ』評 - part1




スゴい戦争映画である。目を背けたくなる程に生々しく凄惨なシーンの連続に、スピルバーグの『プライベート・ライアン』を超えたとも称されている。引き裂かれた胴体を楯に弾幕に突っ込むなどというのは、要塞ア・バオア・クーのMS戦でしか見れなかったものだ。実在する人物の、事実に基づいた設定ということもあり、『破躯喪・リッジ』はアカデミー作品賞にノミネートされ、2部門では受賞を果たしている。監督は1995年『ブレイブハート』でその監督賞を獲得したメル・ギブソン。1979年『マッドマックス』では主役を演じ、それ以来日本でも絶大な人気を誇るスターである。





 立ちはだかる障崖



『吐クソー・リッジ』を見てない人にはまるで伝わっていないが、あるいは見たとしてもあまり印象に残らないが、主人公が対峙したのは日本軍であり、戦艦ミズーリが主砲をぶっ放す先は、センシティブな問題が山積している我が日本の領土沖縄であった(ちなみにハクソー・リッジは勝手につけられた崖の名称)。とは言え、どの国家との戦争であったかは、オーストラリア人の作った映画のテーマを語る上でさして重要ではない。



かつてアメリカは、北朝鮮に狙いを付けられたように、東の端の大帝国の標的にされ、さらには軍事拠点とその周辺への攻撃を敢行され、国難突破解散が可愛く見えるほどの大国難に遭遇していた。主人公「デズモンド・ドス」は、多くの青年たちがそうしたように、勇んで軍に志願した。しかし、彼は他の兵士と異なり銃を持つことだけはかたくなに拒んでしまうのだった。



銃をもたない理由はハッキリしている。敵国を倒すことが正義だった時代に人を殺さないためである。デズモンドは宗教上の理由から、時に暴発で人を殺めてしまうこともある銃器を絶対的に排除したのであった。いかに自由の国アメリカであっても、いかにキリストが殺すなかれと言っても、いかに少年期にトラウマがあったとしても、そんな理由で武器排除の論理が通用したら、軍隊組織は内部から崩壊する。排除されるのは案の定、デズモンドの方だった。



先の選挙の立憲民主議員のようにつらい立場に追い込まれた彼は、それでも希望を捨てなかった。結果を言えば、周りの無理解の方が明らかに優勢であるにも関わらず、問題ある父親が無理の中にも無理を押し通してそれを解決した。この、軍法会議によれよれと現れた父親が判事の情けを誘い、息子が「良心的兵役拒否者」として入隊を許される場面は、二番目に感動を呼ぶところである。ダメ親父は第一次世界大戦に従軍したことである障碍を発症していた。



沖縄戦終結した6/23「慰霊の日」翌日に、これ見よがしに公開された好戦映画は、元学生左翼が牛耳るリベラルメディアの記者たちから案外良心的に受け入れられた。アカデミー受賞という権威と、主人公に銃を持たせないという、反戦左翼の好きそうなワードマジックが効いたからだ。戦争が引き起こす暴力が凄惨であるほど、虐げられる立場を追跡したストーリーは同情的に理解される。反戦平和さえほのめかせば、どんな真意が隠されていようと良心的左翼市民の過干渉をスルーパスさせることができる。彼ら戦争的映画拒否者への配慮を最大限整えておくのが、良心的戦争映画作りの極意である。



そのぐらいのことは戦争映画を作りたがっている、全ての反戦的映画拒否者が把握していることだ。カッコよくて萌える戦闘場面が売りのマンガもアニメも例外なく、都合よくごまかしながら「戦争よくないね、繰り返してはいけないよ」ちゃんちゃん、で始末をつける。しかし、この『戰爭・リッジ』をなめてはいけない。映画はそんなありふれたエンディングになっていないし、戦争を否定するようなワードは一切ない(訂正/もう一度見たら、ないこともなかった)。勘違いがあるとしたら、キノフィルムズさんの配慮あふれる宣伝によって、錯視した映像と誤訳した台詞を先入観と固定観念に結び付けて、描かれてもないドラマを妄想スクリーンに映写したためでしかない。



デズモンドが頑強に武器を持たないのは信仰心のためだったが、その現象だけを持って信仰心の素晴らしさを訴えていると考えるのは早計だ。架空の設定で、ちょっと論点がズレるが『太陽にほえろ!』のジーパン刑事も「銃を撃てない」はみ出しキャラだし、『ダイ・ハード』でジョン・マクレーンを最後に救った巡査部長も「銃コンプレックス」を持っていたため出世の道を閉ざされていた。『迫葬・リッジ』は一度しか見ていないので、もう一度見て間違っていたら訂正するが、実在のデズモンド氏は兵器を持たないのではなく、心理的に持てなかったとも考えられる。もっとも、突撃銃を担架の持ち手(ただの棒)と見なせば利用できる(そういう皮肉な演出が所々ある)。しかしながら、銃と認識したとたん不能となってしまうのは、意思や思想や宗教の問題ではなく、一種の強迫症だ。この身もふたもない理由には、もっと多くの裏付けがあるが長くなるので今日はこれまで。



さて、私個人の一番の感動場面は、断崖戦での英雄的活躍があって、まわりの見る目が変って「さあ、これで本国へ帰れる、妻の元へ帰って平和な日々を送れる」と思わせたところで、もっと過酷な史上最悪最低の地獄へデズモンド・ドスを突き落す、その次の場面であった。内容は今回端折るが、これには少しびっくりした、さすが変態監督だと思った。この人も、手塚治虫スピルバーグと並ぶ大いなる障碍者に違いない。



 part2に続く。









2016-11-03 ARTISAN 1
戦艦の論 THE SEVEN XVII「エヴァをやって評価され過ぎた。次に、彼らしいものを、実写で」

__ 文化の日ゴジラの日、まんがの日 記念 __
11/3は初代ゴジラ封切日にして手塚治虫の誕生日(その2)

 はこちら 

http://d.hatena.ne.jp/BRIDGET/20161103/1478028409

















戦艦の論 THE SEVEN XIX「東北で、あっちの方だったから良かった。」








初めて読む人のための「戦艦の論 」(1)
「シンクロニズム 戦艦の論」〜 過去の投稿を振り返って〜




 プロフィール



連載が始まって、かれこれ五年が経過する。



当ブログ(weblog) の本来の目的はイラストの掲載であったため、その絵画に添えるキャプションとして「戦艦の論」はスタートした。「戦艦」のワードを用いたのは、当時公開されていた映画のタイトルが、たまたま反映されたからであって、戦艦オタクのための戦艦論を書きたかったからではない。
 → http://d.hatena.ne.jp/BRIDGET/20160731/1469968481 (「アンドロメダ級 2番艦」)より



実際の内容は、以下の文章に爆縮されている。



「戦艦の論」とは、ウルトラセブンと、宇宙戦艦ヤマトと、機動戦士ガンダムと、新世紀エヴァンゲリオンを、フジヤマと、ハラキリと、ゲイシャと、フクシマに、相互連関させ、思いつき順に綴った戦いの研究であり、それ自体に最強の武装を施した論である。
 → http://d.hatena.ne.jp/BRIDGET/20130630/1372600877 ( 「政策綱領 一」)より



ウルトラ〜、宇宙戦艦〜、機動戦士〜、新世紀〜。



先に続く言葉が、一つとして思い当たらない人には、理解するのに疲れる「戦艦の論」である。私人の素朴な感想を発展的に展開する「この論」では、具体的にはセブン、ヤマト、ガンダムエヴァを中心とした著作物の類似点と相違点を探っている。ちなみにこの四作品の共通項は、(どのように→)多岐にわたる優れた才能が集まって、(どこで→)日本で生み出され、(どんな→)SFジャンルに属し、(だれに→)少年少女から青年が好み、(どのくらい→)テレビ放送時か映画化時に空前の大ブームを巻き起こし、(何をした→)大正生まれのおじいちゃんがその名を覚えるほど社会現象化したこと、そして、いずれも(何が→)「空飛ぶ戦艦 / ウルトラホーク1号、ヤマト、ホワイトベース、AAAヴンダー」が登場することだ。



ここで言う「戦 艦」とは、最も強大な攻撃力と最も強固な防御力と最も長大な機動力とを兼ね備えた、有人施設のことである。なお、外観については特に限定せず、水上艦艇のみを言い表す訳ではない。
 → http://d.hatena.ne.jp/BRIDGET/20121025/1351105973 (「0(LOVE)と幻想のシンクロニズム 3」)より



シンクロするエッセンスと、相反するおもしろさと、何度見直しても不可解な展開とに意味を与える名作へのアプローチテーマとして、フジヤマ、ハラキリ、ゲイシャ、フクシマ を絡めて論述している。フジヤマは戦闘組織の「基地所在」を、ハラキリは登場人物による「決死行動」を、ゲイシャは「萌えヒロイン」の原点を、フクシマは「滅亡危機」への遭遇を、それぞれ表象している。研究題目をカテゴリー分類する時のキーワードとしても重宝するこれらは、オタク人気獲得のための「特撮・アニメ」四要件とみなすことができる。



英表記でも伝達可能な FUJIYAMA とか HARAKIRI は、近世から現代における、我が国を代表する独自的文化である。「絶景富士山」、「武士といえば腹切」、「新橋・赤坂・神楽坂芸者」、「みちのく東北福島原発」、老若男女・学歴有無に関わりなく誰でも連想できる観念で、日本人であれば説明できないことは恥ずかしいトラディショナルワードだ。これらを横糸とするならば、縦糸に相当するセブン、ヤマト、ガンダムエヴァは、たかだか半世紀の間に生成・消費された、一抹の娯楽作品キャラクターである。クールジャパンと政府主導でもてはやされても、明確に認識している海外の知識人は一部にとどまる。



しかし、国内ではファンの期待に応えて繰り返し再放送され、当該キャラクターを主役として幾度もリブートされている。世代間に抜け漏れなく続くシリーズが、FUKUSHIMA とか GEISYA を織り交ぜながら21世紀以降に生まれた子や孫たちのマインドに及ぼす撹拌と、その結果、東西南北離島の隅々にまで至る国民思想への編みこみは、もはや誰の手にも止められない。世界中に伝播し継承され得る著作権の交換・継続価値もけっして低くはない。



 昔、空母機動部隊。今、空母打撃群



比喩で用いた「最強の武装」とは、ときどき使うアサルトなレトリックである。既存の共有知識を中抜きして煙幕を張り、ターゲットに気付かれることなく忍び寄って逃げ道を塞ぎ、貫通弾の一撃により抵抗する間もなく屈服させる術である。この効果を見せつけることで、疚しさを秘めた髪型のおかしい太っちょで引きこもりの独裁的暴力者を牽制しつつ、自陣営の共謀に関してはスルーさせるのに役立っている。例えばこんな感じに表現する、、



以下(「政策綱領 三」)より
 → http://d.hatena.ne.jp/BRIDGET/20130713/1373709599


オフィスアカデミーの西崎義展は、宇宙戦艦ヤマトの原案を修正し、テレビ総督府に放送継続を訴える。しかし、インテリジェンスに欠ける下参謀は、無礼にもこの企画書を握りつぶした。

「今さら何を言うか! こげなもの持って来よる暇に、視聴者の数字取ってまいれ!」


日本サンライズは恭順嘆願の使者として、おもちゃ屋と親しかった、創通エージェンシーをテレビ総督府に放っていた。制作局長との談判を求めるが、取り次ぎにあたった営業部係長は意味が理解できず、集団で企画変更を加え、その後放送を打ち切りにした。

「この賊徒めが! 売れないロボットに金を使わせるとは、不届き千万!」


__再録は以上



あのヤマトもガンダムも、期待されていたが当初はヒットしなかった。これはオールドファン周知の有名な事実だ。むしろリリース時は数字的には惨敗扱いで冷遇されていた。従来のテレビ漫画とはまったく違う世界観だったから子供はついていけなかったし、子供番組を卒業した中・高生の大部分は存在に気づかなかった。その後の熱狂と讃美から遡って考えると甚だしい温度差がそこにある。視聴者がうかがうことのできない制作サイドでは、いったい、どのような悶着があったのだろう。



想像はけっして難しくない。どこの組織にもいる「権力を持った無能力者」の功罪が伺えるということだ。周りの職人たちからすると若干迷惑な内外管理職との軋轢だ。そいつは、自分が間違っているとは寸分も疑わずに、いつでも偉そうにマウントを取ろうとする。言ってることはだいたい「木を見て森を見ない」ようなことだ。センスがないから微妙に異なる表現を区別できない。たまたま聞きかじった方法論がまぐれ当たりすると、馬鹿の一つ覚えで同じことしか主張しなくなる。質問をするのはイライラしているときだけで、わからないことは見ないふりをして押し通す。



ただし、暴力で抑圧された時代でも社会でもなくなっていたので、虐げられた側にも反撃の機会は与えられる。体制の要求を受け入れつつも、こっそりどこかでやりたい表現を通せばいいのだ。屈服し難い能力判定を受けた場合は、その凄まじいまでの怨念が創造の原動力になる。このエネルギーが映像キャラクターに憑依してプラス転換されたとき、作り手さえ予想しないヒット現象に結びつく。このように、悔しさに鍛えられて放送クール後半に深みが増したという類例は、枚挙にいとまがない。一方で、権力を持った「一つ覚えの馬鹿」に潤沢な資金と勘違いな褒め言葉を与えられたら、クリエイティブは磨こうにも磨きようがない。資本所有者からの侮りを跳ね返したヤマトとガンダムが、シリーズを追うごとにつまらなくなったのはそのせいだ。



 受け身の武装



ネットの言説というものは、とかく言葉尻のみを捉えられ、いきなり後ろからズボンを下げられがちだ。そのような曲解対策として、ここでは本当に言いたいことは意図的にぼやかしたり、含みを多くしたりして防御壁を築いている。また、いくつかの章にまたがって文脈を形成しており、速読は不能で模範的な日本語表現にもなっていない、したがって特定部分の著述のみ抜き取って晒しても、読解を諦めた人からは反感すら持ってもらえない。



不寛容で過干渉な揚げ足取りの勇ましくて軽はずみな挑発くらいは、独自の邀撃システムによって自動反撃する。反論されるようなことは、別なところで無難な正論を明記しておく、その上で反対者を焚きつけて弁証法を展開すれば、タンニンな意見はむしろ直掩機の燃料として利用できる。仮説として、「ガンダム主人公の名前 “アムロ” は、鉄腕 “アトム” から来ている」と推論し公に披露したとする、やがて多発的にツッコミ長距離弾が打ち上がる。「記録にない」、あるいは「記録と違う」という指摘は正しい。ネット上で調べる限り “アムロ” の由来については、「零式艦上戦闘機」の開発コード説(『A6M』)が支持されているようだ。しかし、正解は一つとは限らない。公式記録の記載が誘導されている場合もあり、取り上げられた関係者の証言だけが的を射ているわけではない。



とある事象における世の中の関心の高さと、所説、諸説、俗説、屁理屈、ツッコミ、またそれをめぐる懇談、議論、論争、痛論の多さはだいたい比例関係にある。ウルトラマンスター・ウォーズは、研究本や専門ブログなどで、その設定矛盾や撮影ミスが多数指摘されている。だからといって価値の低いコンテンツだと思う人はいない、本当にダメなものは誰からも茶々の入らない、記憶にとどまらない作品である。ゴジラターミネーターも、何億人か何十億人かが鑑賞しており、さらにそのうちの何千万人かは二回以上見ている。シリーズを通して、配慮に欠ける言説や差別表現がないとは言えない、それに気付かれるリスクも少なくない。





また帰ってくる『ターミネーター2 3D』ベイビーに銃を向ける




 銃 座



事柄と内実の関係性、表現と認識の相互作用は、個人の成長や社会(時代)の進化によって変化(止揚)する。腑に落としたネーミング理由や、理解していたつもりのエピソードの裏に、もっと深いテーマがあるかもしれない。思いつきとは言え、別の角度から眺めることによる発見は多い。フジヤマ、ハラキリ、ゲイシャ、フクシマ は一種の方便だが、俯瞰的、網羅的に捉える指針となる。ここでは「文化を大切に」、「人の命を粗末にしたらいけない」、「女性を売り物にするのは下品だ」、「被災者の気持ちを考えて」などという、いつでもどこかで誰かが訴えている解りきったことは言わない。それら正論の影で見落とされている視点にこそ照準を合わせている。



グローバルレベルで価値ある特異な創作物であっても、アイディアや着想にはいずれもヒントやルーツがある。何もない真っ白なところから、ひとりの天才(または異常者であっても)によって過去に類例のない変異が生じることは稀だ。世紀の傑作と謳われる『2001年宇宙の旅』の、類人猿が突如人類に進化する斬新シークエンスは、漫画「鉄腕アトム」のある回(「一億年前の犯罪の巻」)にアイディアをいただいているし、その回とて三本足の円盤が登場するなど『宇宙戦争』を始原とする、種々の空想科学小説群に影響を受けている。一方スピルバーグ版『宇宙戦争 WAR OF THE WORLDS 』では、宇宙人(ロボ)が地面の中にずっと埋まっていたというくだりがあり、それは「鉄腕アトム」(「一億年前の犯罪の巻」)に類似シーンを見つけることができる。





液体のように姿を変え地面に吸い込まれる宇宙人


「恐竜戦車」や「タイムメカブトン」の原型のようなロボも登場



こういった文化的遺伝、相伝、ループの裏づけのために、連綿とその背景を遡りシンクロニズムを展開している。「未知の知的生命体が、天変地異を起こして人類を圧倒する」エピソードを最初に思いついたのは誰かと、その始祖著作権利者を探りだしたら、最終的に行き着くところは、合理主義の餌食となった神話と宗教の界隈になるであろう。








初めて読む人のための「戦艦の論 」(2)
「花魁と白虎隊」 〜 著者来歴 〜




  娘艦隊道中



私はアニメ県埼玉在住で東京都心に通う会社員である。進学のために上京して、アパートの次に決めたのは、特急「富士」終着駅での清掃バイトだった。皇室専用地下のシャンデリア通路で、何日かゴミ箱を引きづり回していた。同僚の半分が中国人だったのは今と変わらない気もするが、ゴミの九割以上がタバコの吸殻だったのは隔世の感がある。時世は変わるものだ。大学ではバブル時代になお残存していた左翼サークルで唯物論哲学を教えてもらった。そして昭和天皇の見舞い記帳をした際は、サークルの先輩から白い目で見られた。




巨大地下空間のあったところは第四形態の墓場となった


今は、その駅近くの飲食店に勤めるが、かつては広告と映画の世界にいた。年齢は、放送開始より50周年を迎える「ウルトラセブン」と同じである。中学の2年生頃、ハリウッド映画の大ブーム期が来ていた。特に話題になったのが『E.T.』だ。反抗心が旺盛だったので、何も知らないくせに有名すぎるスピルバーグは嫌いだった。20年後、期せずして『E.T. 特別版』イベントを手がけることになる。皇族のつてを通し自ら切り込んで、かの眞子内親王を試写会に招くに至り、結果として他のスピルバーグ作品にも多く関わるようになった。ガンダムに夢中だった思春期は食わず嫌いだったが、今ではもっとも尊敬する監督のうちの一人になった。




世の中の仕組みを分かっておらず、そのせいでうまく行った(同じやり方はもう通用しない)



私の出身地は新潟県燕市分水地区(旧町名「地蔵堂」)である。清貧の僧にして歌人で書家の「良寛」ゆかりの地であり、桜の季節の「おいらん道中」でも有名だ。現役の水上戦艦が役目を終えて、仮想現実の中に新たな舞台を見つけた「艦娘」のように、ひらかな表記される「おいらん」も元々の意味からだいぶ変わってきた。かむろ(下働の童女/アムロみたい)や新造(見習い女郎/新造戦艦みたい)を従えて堂々行進する様は、駆逐艦巡洋艦を率いた戦艦のような迫力がある。



「戦艦の論」なので比較してみた。狭義の戦艦という意味では現役就航しているものは一艦もない → 役に立たないから(打撃戦でミサイルに負ける)。花魁も就業者は一人として現存していない → 法律で禁止されたから(明治の芸娼妓解放令)。イメージの更新作業により、わが故郷にも県外客やインバウンドが増えている。ありがたいことである。ところで、花街として栄えていたこの地は、江戸吉原のような花魁のいた規模の街ではない。米どころにして信濃川水運の恩恵で潤っていた中程度の田舎町だ。




信濃川の治水記念に植えられた桜並木で有名


突き当りの寺は地蔵堂の由来となった願王閣、左の家屋が良寛少年時代の下宿先


公選されたミスが江戸と佐渡を結ぶ街道の旧宿場を練り歩く



 ファミリーヒストリー



私のDNAの四分の一は芸者から受け継いでいる。祖母「安達ハナ」は、戦前(第二次大戦)には亡くなっているが、街では著名な名妓にして家付き娘であった。「家付き娘」とは望んで実家の芸者になった子女で、貧しく売られてきた娘と違ってそれなりの人格権と発言権をもち、芸磨きに専念し下働きだけをしないでよかった。それゆえ、街の料飲組合上げての「おいらんプロジェクト」立ち上げに、中心的に参加していたと考えるのが自然だ。



世界中探しても、身売り女性を主役に見世物とする日中行列などニッポンにしかなかろう。厳密で硬直した身分制度の一方で、大衆支持という、権力に対する抜け道であるところの文化的権威がそこに座していた。江戸時代の風俗を復活させて、90年以上続けてきた地蔵堂という街もまた尋常でない。「本来の意味を知っているのですか」という上から目線のありがたいご指摘、冷笑、侮慢意見など軽くいなせる風土が地元にはあったのかもしれない。ハナは、その初期における推定功労者である、と「戦艦の論」くらいは明記しておきたい。時は、「花子とアン」の時代だった。



→ http://d.hatena.ne.jp/BRIDGET/20160508 (「アンドロメダ級 1番艦」)参照
「花」と「アンヌ」のシンクロは偶然とし、「テム・レイ博士」の由来は「手塚治虫」だったと紹介した。 



ハナの先祖は福島の武家で、地蔵堂に移ってからの実家は寺子屋から置屋(今でいう芸能事務所)に鞍替えして財をなしていたらしい(儲けのためもあるかもしれないが、学ぶこともできない娘に芸を身につけさせ、自立させるためだったとの解釈も親族の中にある)。ただ、くり返し大火に見舞われ、物的な記録は家紋しか残っていない。



この地域は、幕末に会津の領地があり、戊辰戦争では前線基地が置かれ新政府側に付いた与板藩と対峙した(与板は直江兼続の居城として知られる。最後の藩主は大老井伊直弼の四男である)。地蔵堂には戦後(戊辰)、会津藩の兵士が住みついて子供に学問を教えたという史実があり、会津藩に自分と同苗字(安達)の武家(白虎隊員にも)が存在するが縁は不明だ。ハナの妹(父の叔母)も芸者の道を歩み、白虎隊の町「会津東山」で人生を全うした。




外国の目から見た芸者像(『Memoirs Of A Geisha』)



 アートワーク



改めて「芸者」とは何か。いわゆる外国人の知っているゲイシャは、着物を着た厚化粧の女であり、ゆったりとした動作で男に酒を進めるイメージであろう。おしとやかで従順な日本女性の象徴としての言葉である反面、何か怪しげなムードを持っている。「遊女」と混同されることが多いが、定義は異なる。派手な装飾で、見た目から人気のある「花魁」も似たようなイメージを持たれてる。この気位の高い娼婦を、お姫様の一種と思っている人もいるだろう。



「花魁(おいらん)ってお姫様のことではないのですか?」
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1132219796



駅前の繁華街では石を投げれば姫に当たる、オタサーの女子とかキャバ嬢とか。それにナンバーワン風俗嬢を姫と呼ぶんだから、花魁も姫ってことで合ってますよね(国内に血統正しきプリンセスは数人しかいないはずだが、、)。



方や、歌って踊れる芸者(芸妓)あるいは舞妓(舞子)は、現代のダンサーやアイドルや女優のようなもので、あからさまには性を売り物にしない。とはいえ、スターとアーティストとモデルとショーガールとコンパニオンとセクシータレントとホステスとキャストとの境目はあってないようなもので、どこにポジショニングするか、それは時代が変わっても個別の事情によりけりだった。



 歌麿に描かれ、


 先進世界の芸術家たちを魅了した「花魁」とは、


 最も高額な商品力と


 最も広範な教養と


 最も妖艶なカリスマとを兼ね備えた、


 花にたとえられる女性のことである。


 なお、身分については特に限定せず、


 上級遊女のみを言い表す訳ではない。





 高嶺の花にささぐ



腹切、切腹、割腹、詰め腹、自決。武士の思想の体現とも言える言葉である。アメージングな日本のかつての儀式制度であり、芸者とともに異文化理解の中心に位置付けられる特異的な概念と言えるだろう。「福島」は、地域を表す言葉であると同時に、原発事故後の諸問題を包括している。偶然だが震災の一週間前に私は福島城跡(現県庁)を観光していた。何か血筋が呼び寄せるものがあったのだろうか。県庁職員がなんとものんびりしていたのが印象的だった。



標高日本一の「富士山」は、姿かたちの美しい地形的な名所であるだけでなく、信仰を集め国民精神のシンボルともなっている。、、BATTLESHIP や OIRAN など、ミリタリーパワーや風俗営業の頂に君臨したそれぞれの言葉は、メジャーではあるが、またはメジャーすぎるがゆえに、人によって見下ろしたり、見上げたり、まったく階層の異なる感慨を抱くという点で、振れ幅の大きい特別な観念に属している。




 駿河なる ふじの高嶺は いかづちの 音する雲の うえにこそみれ


  賀茂 真淵












戦艦の論 THE SEVEN XVIII「エンジン切り離せ、全員に告げろ、白兵戦の用意をさせろ」








 ひさかたのひかるそらの春の日に しづ心なく江戸のがんだむ










【再録】シンクロニズム 戦艦の論 3-7 「レインボーブリッジ封鎖できませんっ!」より抜粋
http://d.hatena.ne.jp/BRIDGET/20130709/1373369271



ガンダムバンダイ山麓に立つ! 1 〜品海砲台〜


日本と、世界と、地球を守る、セブン、ヤマト、エヴァの防衛基地は富士山麓周辺にあり、戦闘機、宇宙戦艦、決戦兵器の発進シークエンスの背景には、富士が遠く聳えている、しかし、ガンダムにその固定パターンはない。日本を舞台に設定しなかったからだ。



ガンダムは、『地球防衛軍』や『マジンガーZ』が常習して来た、この日本びいきのフジヤマ文化遺産を覆し、宇宙時代にあった、よりグローバルな設定作りを旨とした。だが、意図するしないに関わらず、結局トクガワに引き寄せられる。「REAL GRADE 1/1 RX-78-2 」、等身大抜刀ガンダムは、2010年7月、世界に裾野を広げる巨大カンパニー、「バンダイ」お膝元の駿府静岡に立つことになった。



(今回追加画像/ガンダム立像最後の展示より)



ちなみにそれは現在、ダイバーシティーに配置転換させられているが、そもそも台場から、富士の麓に持っていかれた経緯がある。いや、そんな瑣末なことより重大にして、日本人に忘れられている事実は、江戸湾を埋め立て、台場(砲台)を建設したのが、国体を「黒船」から守ろうとした、会津藩であるということだ。









ガンダムバンダイ山麓に立つ! 2 〜奥州富嶽


鶴ヶ城を見下ろす磐梯山は、その美しさから会津富士と呼ばれている。この麓に、急峻な崖を逆落としで流れ込んで来たのは、溶岩流ではなく、トクガワに反旗を翻した、西国のサムライたちであった。



ところで、宇宙戦艦ヤマトの登場人物のほとんどは、日本史に名を刻んだ有名人の苗字から採用している。一方、ガンダムにそのような継承はないようだ。しかし、わずかにしか存在しない和風名に、フクシマの地名を見いだすことができる。ホワイトベースの士官室に潜り込んで、行き先が、宇宙基地ジャブローであることをリークしたのは「ミハル」だ。奥羽越列藩同盟で、最初に官軍に寝返った三春藩と同じである。



ここからもたらされた有力情報によって、精鋭会津の防衛ラインは裏をかかれ、手薄な峠を一気に抜かれてしまった。さて、現在の福島県中通りに位置する三春町の隣は、田村市で、この地の由来は有名な坂上田村麻呂にある。田村麻呂は征夷大将軍という官職についていた。これが、鎌倉開府を経て後世の徳川将軍職に繋がる。ガンオタ少年は、多様な人種が集まっているホワイトベース乗員に、数少ない日系人が含まれていることに親近感を覚える。君は、その飯盛担当が「タムラ」というのを覚えているか?













【再録】シンクロニズム 戦艦の論 3-3 「矢作ちゃんさぁ、ガンダムに例えれば皆に通じるっていうの、思い上がりよ」より抜粋
http://d.hatena.ne.jp/BRIDGET/20130603/1370200047









ザクとは違うのだよその一 〜モンゴルの源平合戦



少年兵で構成されるホワイトベースが「白虎隊」っぽく、その上の年代で組織される精鋭「朱雀隊」が、シャアの「赤ザク」に似ていることは既に述べた。では、会津軍でさらに上に組織された「青龍隊」にあてはまるキャラはいないのか。



偶然か否か、年代の一致する「ランバ・ラル」の搭乗機「MS-07Bグフ」は、青く塗られており「青い巨星」と呼ばれ恐れられた。手には「青龍刀」を持っている。ランバ・ラルの軍装は、緑系統が多いジオン軍では珍しく青い。「グフ」とは変な名前だが、モンゴル語では青を意味するらしい。ついでに、「シャア」をモンゴル語で調べたら百式色だった、、



ドズル旗下の青龍隊は、バトルシップザンジバル」で地球に降下するが、借り物だったのでそっちは青くない。かつて蒼き狼が支配したモンゴル砂漠で、ガンダムを苦しめたのは青い龍であった。



「時代が変わった様だな、坊やみたいなのがパイロットとはな」
_青龍隊幹部








ザクとは違うのだよその二 〜デニム・ジーンズはスレンダー〜





ここで、登場人物の由来をもう一度復習してみる。アムロ・レイ「零式」、ハヤト「隼」、カイ・シデン紫電改」、リュウ・ホセイ「流星」、セイラ「晴嵐」、カツ「特四式内火艇 カツ」、レツ「烈風」、キッカ「橘花」。白虎隊は第二次世界大戦時の日本軍の搭乗兵器であった。では、シャア少佐率いる朱雀隊はどうか。



中立コロニー「サイド7」偵察チームのジーン、デニム曹長、スレンダー軍曹。なんだかジーンズ素材か種類を差しているようだ。デニムはインディゴ染めの生地、ジーンも同様で、ジーンズはそれを使用した製品のこと。変と言えば変だが、70年代の国民的刑事ドラマにも「ジーパン」という若いのがいる。ボスの命令違反ばかりしている跳ねっ返り新人デカは、最期に殉職するというのがパターンだ。「へっ、怯えていやがるぜ、このモビルスーツ」と強がってみせた新兵「ジーン」も、シャアの命令に逆らって殉職した。ガンダム最初の犠牲者だ。




「認めたくないものだな、自分自身の若さ故の過ちというものを」
_朱雀隊幹部







ザクとは違うのだよその三 〜太刀の刃文は乱刃 〜




じゃあ、ランバ・ラル大尉の青龍隊はどうであろうか。


タチ中尉 
 ランバ・ラル自決後、ハモンにMSを届け自らもザクで戦う
 (THE ORIGIN版ではハモンに片思い)

クラウレ・ハモン 
 軍属ではないが、ジオンと裏のつながりを持つ美魔女
 ランバ・ラルの敵討ちをくわだてる
 (シャアを産むことになる歌姫とは親友であった)

ランバ・ラル 
 新興ザビ家と対立する名門ラル家の世継ぎ
 クーデターで失脚させられたが、利用価値があると見なされ生き延びた
 (若き日のタチ、ハモンと共にキャスバルアルテイシア兄妹を脱出させるために尽力する)
 

タチ → 太刀 主に戦国時代以前に使われた日本刀
        近世の武士が用いた刀(打刀)と、形状・用法が異なる

ハモン → 刃文 日本刀の美しさ、妖しさを表す磨き鋼の波模様

ランバ → 乱刃 刃文がストレートではなく、サメの歯みたいなギザギザ
         突きつけられた時の心理的威圧効果は絶大
(読みはランバではなくミダレバ)



白兵戦が得意な青龍隊に相応しいシンクロだ。ちなみにガンダムの影響で、「白兵」戦を、搭乗兵器に頼らないゲリラ戦ととらえがちだが、本来の白兵とは、「白刃」を持った兵士のことであり、アサルトライフルなどを使う打撃戦と区別して用いていた。しかし、モビルスーツが刀剣を用いて、接近戦を行えば、これまた白兵戦と言うべきか。いずれにせよ、保身よりも義に殉じて散った白虎の先達は、味方の連邦軍よりも兵士として見本になった。




「見ておくがいい、戦いに敗れるとは、こういうことだー!」
_青龍隊幹部



























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シン・ゴジラ』が生まれる15年前の予言 





【反復確認】 浜野助教授(1951 - 2014) インタビュー 抄
http://d.hatena.ne.jp/BRIDGET/20151103/1446561471 



ゴジラ』というのは冷戦をアイコンにして人間を襲うという傑作なんです。アメリカはそういう意味で、SFものでは1つも傑作を生めなかった。多分、『2001年宇宙の旅』のキューブリックはリアリティをもって未来を描くというところで日本の映画に惹かれたんだと思うんだね。「手塚治虫」さんに声をかけたというのも、手塚さんは絵が丸っこいから明るそうに見えるけど、ものすごくペシミストだよね。



モノリスは未来の神であって、手とかをなくして、異空間を移動して、ちょっとした冗談で猿に知恵をつけちゃうっていう。脚本では非常に合理的に描かれていたものを、映画でひどく神秘的に描いた。最初は「宇宙には人間以外の存在がいる」とかいうナレーションが入っていたんだけど、それだと非常に陳腐化しちゃうわけね。非常に神秘主義的なのに、科学的な学者が出てきてね、宇宙に違う存在がいてもおかしくないとか、学術的に確率を求める、なんて言っちゃうと、彼の思っている神秘主義とは乖離しちゃうから。未完結風の映画自体も、そういったところを残そうとした彼のしたたかな戦略じゃないかな。



普通の映画と言うのは、「黒澤明」さんもおっしゃってるんだけど、“心情を仮託できる人がいて、その人に感情を移入できる”というのがある。ところがこちらでは出てくる人物全員に感情移入できない。突き放されたまま話が延々続いて、突然後半には訳のわからない事になっちゃって、それですごく不思議な体験をするから真剣に考えちゃうわけね。初めてあんな映像体験をしたと思う。



アメリカが典型的にやってるのは、特にSF映画作家は日本の『ゴジラ』とかのファンでたくさん見ているじゃないですか。あれを完璧な絵にするとどうなるかってやってるんですよね。だから世界中で受け入れられたストーリーラインを探したときに、まずは日本に手を出した。すごく残念といえば残念ですよね、それを日本はきちっと実写映画化できないですから。要するに今の日本の映画界は30年経ったって言ってもこれをリメイクする力はないんです。もちろんこうしたテイストは出ないだろうけど、パクリでもいいからやってみようとしてもできないわけです、技術的な面で。



もう日本映画って、社会を切り裂くような鋭利なテーマってやらないじゃん。



でもやっぱり宮崎さんはすごいですよね。「ルーカス」だって「スピルバーグ」だって、彼ら映画人には環境主義者が多いんですが、どう環境問題を描いていいか分からない。だって環境問題は突き詰めていけば人間が悪なんだから。「スピルバーグ、おまえが悪者じゃん」ってことになるんだよね。生きてることが悪いってことになってしまうわけでしょ? それを宮崎さんは懲りずにやったんだよね。それを繰り返してやった。僕は『風の谷のナウシカ』ですごいと思ったけど、『もののけ姫』というあんなに“破綻のある映画”を平気で作った。それはなぜかというと量的拡大があるから、ああいう破綻のある映画も人々に受け入れられている。



押井さんはやたら『ブレードランナー』のことを言うよね、彼は映像がスタイリッシュですからね。僕は何をやっても支援したいと思っているのは「押井守」、「大友克洋」、「樋口真嗣」ですね。でも押井さんと大友さんはそこそこ支えられていますからね。僕はあいつ(樋口氏)を監督にしたいんだよ、『ガメラ』にしても「金子修介」監督のシーンになるとカクンと落ちるでしょ? あの特撮のところのテンションが維持されていたら『ガメラ3』もすごかったんじゃないかと思うんだよね。どうして映像で説明するの、っていうことですよね、どうせやっても分からないんだから。



富野由悠季」さんは、『スター・ウォーズ』をかなり意識して破綻のないストーリーに移行させて、正義も悪もなくして、昔話の形を持ってきて…、そういうものを作りたかったんだって。非常に日本的だよね、どっちも悪くないのに戦わなくちゃいけない。そういう混沌としたアメリカ的でない状況を描こうとした。富野さんは理論的に語れない人だから混乱しちゃうんだけど、よくあれだけ撮れると思いますよね。富野さんの世界というのは奥が深いですよね。アメリカでは『ガンダム』が第二の『ポケモン』って言われるくらいヒットしているんですけど、すごい“資産”ですよね、日本のアニメは。いい人がすごくいますよね。



やっぱりすごい演出ですよね、メリハリが効いていて、量が多いから、危険なことにもチャレンジできるじゃない。量が少ないと怖くて、当たらないと次ができないから冒険できないじゃないですか。アニメーションは冒険だらけですよね。『鉄腕アトム』なんてだらだら続いていたけど、富野さんは『アトム』のころからの人だから、あらゆることをやったって言ってますよね。そこで鍛えられているから、あの手この手の“引出し”がすごくあるんですよね。だって押井さんの『うる星やつら』なんて実験アニメじゃないですか。アニメーションだからって許されるのであって、あれが実写だったら怒られるよね。



庵野秀明」さんは次じゃないかな。



軸がぶれているから。自分を抑えてあそこまできっちりできるなんて。ある種の時代の風を受けて『エヴァ』をやって評価され過ぎたと思う。次に彼らしいものを、実写でここのところやっているけど、まだどうなるか見えない。ものすごい樋口と仲いいでしょ? 


(2000年末取材 協力/早川書房 東京大学新聞)















〜 艦隊コレクション 2 〜 
集団的ディフェンス (更新)




超弩級
ゴジラ』、『鉄腕アトム


弩級
七人の侍』、『2001年宇宙の旅


戦艦級
ウルトラセブン』、『宇宙戦艦ヤマト』、『機動戦士ガンダム』、『新世紀エヴァンゲリオン





航空戦艦
ターミネーター2』、『地獄の黙示録


巡洋戦艦
タクシードライバー』、『太陽を盗んだ男


重巡洋艦
隠し砦の三悪人』、『未来少年コナン』、『AKIRA


巡洋艦
ブレードランナー』、『エイリアン』、『エイリアン2』、『風の谷のナウシカ





突撃駆逐艦
『レオン』、『切腹』、『プライベート・ライアン


ミサイル駆逐艦
地球防衛軍』、『宇宙戦争 War of the Worlds』、『ターミネーター』、『ブラック・レイン


特別駆逐艦
おおかみこどもの雨と雪』、『野獣死すべし


水雷艇
カプリコン・1』、『戦国自衛隊』、『ファイナル・カウントダウン』、『GALACTICA/ギャラクティカ』、『沈黙の艦隊


快速艇
シン・ゴジラ』、『バトルシップ





その他の艦艇
ウルトラマン』、『ヒドゥン』、『アバター』、『サンダーバード』、『宇宙大戦争』、『アルマゲドン』、『ディープインパクト』、『インデペンデンス・デイ』、『若き勇者たち』、『勇者ライディーン』、『伝説巨神イデオン』、『超時空要塞マクロス』、『フランダースの犬』、『タイタニック』、『フィフス・エレメント』、『マトリックス』、『攻殻機動隊』、『機動警察パトレイバー』、『宣戦布告』、新『ガメラ』、『人狼 JIN-ROH』、『ランボー 怒りの脱出』、『ライトスタッフ』、『フィラデルフィア・エクスペリメント』、『ダリル』、『ウォー・ゲーム』、『サマーウォーズ』、『戦火の勇気』、『ラストサムライ』、『獅子の時代』、『八重の桜』、『坂の上の雲』、『シン・レッド・ライン』、『戦場のメリー・クリスマス』、『日本のいちばん長い日』、『ジャッカルの日』、『合衆国最後の日』、『24 -TWENTY FOUR-』、『スピード』、『新幹線大爆破』、『動脈列島』、『皇帝のいない八月』、『ボーン・アイデンティティー』、『プリズン・ブレイク』、『悪魔のようなあいつ』、『太陽にほえろ!』、『アルプスの少女ハイジ』、『ミュンヘン』、『クローバーフィールド/HAKAISHA』、『みゆき』















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